◇◇◇ アスカお誕生日記念SS ◇◇◇


   『シンジ、バイトをする。』


 アスカもたまには反省する。

 素直になれない自分が悪い。

 だが次の瞬間にこうも思うのだ。シンジも悪いのだと。

 大学を出ている自分が、どうして高校生をやり直しているのか。それがシンジは、まっ
たくわかっていない。シンジと同じ時間を過ごしたいからだと、どうしてわかってくれ
ないのか。

 彼女はそのことに苛立つ。それは小さな棘を生み出す。その先が内側に向けばシンジ
のように自分が悪いと思ってしまう。

 アスカの棘は、シンジに向かってしまう。

 では、シンジは誰に優しくしてもらえるのか、とアスカは考える。

 綾波だろうか。それでいつかシンジは勇気を振り絞って綾波に近づくのか。それは嫌
だ。自分に向いてほしい。

 アスカは聡明な彼女はすぐに、それは自分のわがままだと気づく。

 単に自分から近づく勇気がないだけだ。

 それにはせめて、シンジの方から、彼女が近づいてもいいという隙を見せてくれない
だろうか。

 今日も鵜の目鷹の目で、アスカはシンジを見る。それに気づいているのは、同級生に
して生涯の親友。洞木ヒカリだけだ。


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 死海文書の予言にもとづき現れていた使徒も来なくなり、ゼーレの人類補完計画も頓
挫して数年が経っている。

 汎用人型決戦兵器エヴァンゲリオンも、今は兵器として運用されることもなく、新たな
エネルギーとしての実験に使われるのみ。

 それすら、いまだにファーストチルドレン綾波レイ、セカンドチルドレン惣流・アスカ・
ラングレー、サードチルドレン碇シンジがいなければ発動しないので、数十年後には
利用できなくなる可能性が高い。


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 碇シンジは、草食系男子のように思われているが、稀に暴走することがあるから、その
評価は少し違うだろう。彼がおとなしいのは、自己評価が低いからだ。

 だから、誰かが自分を好きになってくれるという想像が最初から頭にない。クラスの
女子が好意から彼に親切にしても、なんて彼女は優しい人なのだろうと感動するばかりだ。
あとはいつかこの優しさのお返しをしたいと思い、実際にそうする。

 女の子たちは気づく。これは手ごわい相手だと。好意がそのまま受け取られないのだ。
その内、他にも気になる男子が出てきたりして、いつか淡い恋心として思い出されるか、
もしくは記憶の底に沈むのか。

 ここに一人、緩急自在に使い分ける投手碇シンジに三振の山を築いている少女がいる。

 名前を惣流・アスカ・ラングレーと言う。もうすぐ十七歳の高校二年生。

 勝つまでやれば負けじゃない、というのが彼女の勝負事に対する姿勢である。

 いつか強烈なピッチャー返しをお見舞いするべく、日々努力している。いや、ピッチャー
返しだと点に結びつかないからバックスクリーン直撃のホームランを打つべきだろうか。
それだとシンジの手元にボールが返らない。などと、アスカはどうでもいいところで悩ん
でしまう。

 それを含めて彼女の悩みは、上手く隠されているので、碇シンジは気付かない。

 そして碇シンジも、また彼なりに考えているのだ。

 シンジがアスカのことを思う時。

 それは、今日のご飯は何にしようかとか、今日も元気がいいなとか、誕生日のプレゼ
ントは何にしようかなと思う時。

 そんな時に、彼の胸の中には、どこかに吸い込まれていくような痛みがある。それは
恐ろしいものではないし、嫌でもなく、むしろ心地よさがある痛みだ。

 痛みが心地よいなんで、自分は変態なのではないかと不安になるが、さて誰かに聞く
わけにもいかない。もし変態だと言われたら、立ち直れない。

 もし変態だと知られたら、それもアスカに知られるようなことがあれば、もう一緒に
葛城家では暮らせないだろう。

 ミサトがいるとはいえ、年頃の血の繋がらない男女が同じ家に住んでいるだけで既に
異常だと言われても反論できない。

 もしかしたら、周囲は奇異な目で見ているのではないか、ただ言わないだけではない
だろうか。

 そんな風にシンジは考えすぎるタイプだ。どちらかというと、慎重で熟慮するタイプだ。

 だからアスカの十七歳の誕生日が近いとなれば、事前にリサーチすることなどシンジに
すれば当たり前の話だ。

 葛城ミサトは、酒好きでゴシップ好きの、いわば下世話な人間だが、さすがネルフの
幹部だけあって、パソコンを使ってインターネットに接続する環境がある。

 まだこのご時勢、官公庁、企業が回線を引くことはあっても、一般家庭はケータイ電
話がいいところだ。

 セカンドインパクト、その後の使徒の襲来で、十数年のスパンで起きた災害は、環境
を変え、地軸をずらした。その影響は日本にとどまらず、世界、ひいては人類の文明も
危機に瀕した。

 それが数年でここまで復興するとは、人間の生に対する執着心は並々ならぬものが
ある。

 シンジも生きていて良かったと、たまに考えるくらいには成長した。

 そして今、彼はパソコンで女子高生が欲しい物を調べるべく、パソコンの前に座って
いる。女子高生と言うのはアスカのことで、まさか本人に聞くわけにもいかないから、
こうやって調べようというのだ。

 インターネットの検索エンジンに『女子高生 プレゼント 喜ぶ』とキーワードを入力
して検索する。

 画面が出た。一番上の、アンケートをとったというページに飛ぶ。

 さっそくシンジは読んでみた。

 女子高生百人に聞いた、貰ったら嬉しいプレゼントランキング。

 一位、現金

 二位、服

 三位、アクセサリー

 シンジはつぶやいた。「そりゃないよ」

 現金はお小遣いということだろうし、喜ぶのはわからないでもない。だがシンジは考
える。自分がプレゼントとしてアスカから現金を貰ったら?

 たぶんがっかりする。それはたしかだ。その場ではにこやかにお礼を言うが、それも
自分の部屋までだ。がっかりしすぎて自分の部屋でドアを閉めて一人になった瞬間、
その場に崩れ落ちるだろう。ちょうど爆破解体されたビルみたいに。

 さらには、そのまま地面に飲み込まれたいような気分で一晩過ごすはずだ。

 だから、現金は有り得ない。

 服。服だって!?

 シンジは心の中で二回言っている。すでに彼の気分は敵前逃亡だ。服ほどセンスを要
求されるものはない。

 サイズが合わなかったらどうしよう。色が気に入らなかったらどうしよう。

 彼はアスカが服を買うのによく付き合わされる。あの時のアスカの真剣さはシンジが
感心するレベルだ。

 そして理不尽だ。次から次へと服を試着しては、

「これ、どうかしら?」と聞いてくる。

 シンジも真剣に、「いいんじゃない」「よく似合ってるよ」と言い続けると、彼女は
不機嫌になるのだ。ホントはどうでもいいんでしょ、と。

 だから服はやめておいた方がいい。

 実は、散々買い物に付き合わされているにも関わらず、アスカの服のサイズは何号かも
シンジは知らない。アスカがかたくなに隠すからだ。

 シンジとしては、まあMサイズだろうくらいしかわからない。こうなるとギャンブルだ。
着れないサイズを贈ったら怒るだろうし、ジャストフィットのサイズを贈ったら、なんで
知っているのだと詰問されそうだ。

 くわばらくわばら。

 だから、服は有り得ない。

 そうなるとアクセサリーだ。三位というと銅メダルで、シンジとしてはなんとなく、
ありがたみというか、信憑性が薄くなってしまう気がするが、自分では何も良いアイデ
ィアが浮かばなかいのが現状だ。

 情報とは、取捨選択できるだけの量があってこその情報である。

 今のところ、少なくとも自分の中にはなかった情報が手に入っているわけだから、それに
関しては、こうしてリサーチし、ランキングをつけてくれた誰かに感謝しないといけない。

(アクセサリーかあ)

 シンジとしては、ハードルが高い買い物だという気がしてならない。

 まず思い浮かぶのは指輪だが、これはもう、シンジにしてみればとんでもない話だ。
結婚指輪、婚約指輪以外で思い浮かぶ指輪といったら、指輪物語に出てくる力の指輪く
らいのものだ。

 結婚なんてね。と呟いて、シンジは一瞬、ウエディングドレスのアスカを想像するが、
なんとなく隣の新郎が誰なのかと思うと、胸がチクリとする。まだ自分を隣におけるほ
ど、シンジの自己評価は高くない。

 気を取り直して、ランキングのページをもう少し読んでみる。十八歳の誕生日にシルバー
リングを貰った女の子は、一生幸せになれるというジンクスがあるらしい、という話がのっ
ていた。

 十九歳という説もあるようだが。少なくとも、来年の話だ。その時は、アスカも誰か
シルバーリングをくれる男がいるかもしれない。

 そう思うと、シンジの胸がまた痛んだ。この痛みは好きな感じではない。

 誰もくれそうになかったら、僕がアスカにあげてもいいんだよね、とシンジは考えた。
その前に自分の誕生日が来ることは意識の中に無い。

 指輪は今年はやめようと決めた。第一、これもサイズがわからない。

 まさか、指のサイズを測るわけにもいかない。それをやると一発で何を考えているか
バレる。それは良くないなとシンジは思う。

 今度は、ネットでブローチ、ネックレス、イヤリングと見ていく。ここはネックレス
だろうか。

 ゴールドは値段が高いし、いきなり何万円もするものをあげるのはお互いに良くない
だろうとシンジは考える。一度上げたプレゼントはよほどのことがないと下げることは
難しいからだ。

 自分の服などどうでもいい派のシンジは、服を買うときの基準は安いか高いかだが、
それなりにデザインに関するセンスはある。だから、ネックレスを選ぶときも、彼がこれ
かなと思うものは高かったりする。

 いろいろ見て、彼のセンスが良いと思うのと、値段がちょうど合わさるラインがあった。

 フェリックス・シュトラウス、というブランドらしい。ちょうど第三新東京市にも店
舗があるようだ。

 シルバーのネックレス。値段は一万数千円。

 予算は一万円以内だったが、そのランクだとシンジ自身が納得するデザインがなかっ
たのだ。

 自分が納得していないものをプレゼントできない。

 あとは自分の懐具合の問題だ。

 シンジは普段から、父親のゲンドウから小遣いを貰っている。シンジの口座に振り込
まれる形式だ。そうはいっても数千円のことで、彼だって友達と遊びに行ったりして使
うこともあるから、今残っているのは一万円もない。

 バイトは彼の食に対するポリシーからしていない。

 バイトなどしたら、誰が彼らの食事を支度をするというのだ。ミサトでは命の危険が
ある。アスカは最近興味が出てきたようだが、ほっておくとレトルトやコンビニで買っ
てきたもので済ませてしまう。

 駄目ではないが、アスカがそうしたものを食べていると、シンジはなんとなく負けた
気がするのだ。

 ではどうやって、金を都合しようかなと思っていた彼は、ランキングのページの片隅
に出ている広告を見た。

 バイトの募集で、日払いOK。日給一万円と書いてある。しかも即日勤務も可だとの
こと。

 これだ、とシンジは思った。


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 知らない相手に電話をかけるのに、シンジは少し緊張した。

 呼び出し音が三回鳴って、男が出た。

「バイトはまだ募集していますか」とシンジは言った。

「してるよ」と男は答える。

 今から来られるかといわれて、シンジは履歴書をまだ書いていないと答えた。

 いつもならそうしたものを準備してから電話するのだが、アスカへの誕生日プレゼン
トが決まったこと、バイトの募集がすぐ見つかったことで、珍しく浮き足立っていたのだ。

 日払いの仕事だから、履歴書は不要ということで、シンジは指定された場所に行って
みることにした。


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 普通に生活していると、知らされない事実というものがある。

 それは、知らない方がいいからという理由だったり、知ると民衆がパニックになるか
らという理由だったりと、色々ある。

 セカンドインパクトがその最たるものだ。

 エヴァのパイロットというのも、一般に情報は公開されていない。

 シンジは転校した初日、聞かれて答えてしまっているが、そうしたイレギュラーはと
もかくとして、一般に対して、その素性は公開されていない。

 ただし、各国の情報機関は知っているし、だからネルフは、彼らを保護しなくてはな
らない。

 黒服が目立たないように、常に付かず離れず、ガードしているのだ。

 その黒服が、シンジが移動することに気づいている。

 基本的にシンジがどこで何をしていようが自由だ。法に触れないかぎりは。もしくは
彼に危険が迫らないかぎりは。

 だから、シンジがどこに行くとしても、ただついていき、見張るだけだ。


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 シンジが来るようにと指定された場所は、繁華街の少し裏に入った小さな雑居ビルの
三階だった。薄汚れたエレベーターに乗って三階に上がると、ドアが一つしかない。

 そのドアには鱗のような曇りガラスがはまっていて、金色の文字で社名か店名が書い
てあった痕跡があるが、長い時間が経っていることをあらわすように、文字はかすれて
シンジには読めなかった。

 お人よしで、人を疑うことを知らないことにかけては、超高校級の碇シンジも、この
辺りで少しだけ不安になってくるが、そこは若さもあり、好奇心もある。

 どんな仕事なんだろうと、ワクワクしてくる気持ちもある。

 ドアをノックし、中に向かってシンジは声をかけた。「すいませーん」

「どうぞー」中から低い男の声が返ってきた。

 フランクな感じもするが、怪しい感じもする。それでも明らかにヤバそうなら、帰れ
ばいいやとシンジは腹をくくった。

「失礼します」

 ドアを開けたシンジは、緊張に足を取られながら事務所に入った。

 正面は思っていたよりは広かった。シンジたちが住むマンションのリビングくらいは
あるだろう。正面には二枚の窓があり、その前に置かれた黒い事務机に軽く腰掛けるよ
うな姿勢で、男がこちらを向いて座っている。

 年齢は五十くらいだろうか、シンジは大人の年齢がよくわからない。

 くずれたようなリーゼントで、灰色のスーツを着ているが、ネクタイが緩んでいる。

 見るからに怪しい男だ。その男は右手でピストルの形を作ると、シンジを指差した。

「合格!」男は、そう言って、シンジを撃つ真似をした。バキューンと言うのかとシンジ
は思ったが言わなかった。

「あの、合格って」話が早すぎる。

「採用ってこと。今、君、ドア開ける前に、中に声かけたろ。だから合格。他の奴らは
いきなりドア開けやがってよ。そういう奴らは信用できないからさ」

「まだ名前も名乗ってませんが」

「ああ。名前とか聞かないから大丈夫。こっちも名乗らないし。それでも誠実な人間を
雇いたい。ドアを開ける前にノックして声をかける。部屋に入るとき挨拶する。これだ
けで君の人間関係に対する丁寧な姿勢が十分に見て取れるよ」

「ありがとうございます」よくわからないが、シンジはお礼を言った。

 男は立ち上がって、両手を二回打ち合わせてから言った。

「じゃあ、さっそく、仕事を頼むよ」

 男はシンジに背を向け、机の上にあった封筒を手にした。

「これ。運んでもらえるかな」

「あの、中身は?」

「君は知らなくていいし、中は絶対に見ないでくれ。見た時点で君はクビだ」

「わかりました」

「駅前に行って、噴水広場の前にスーパーのレジ袋を持ったおばさんがいるから。袋か
らネギが三本飛び出てるおばさんだ。その人にこの封筒を渡すんだ。いいかい。ネギは
多くても少なくてもいけない。二本でも駄目だし、四本でも駄目だ」

「わかりました。三本ですね」

 スパイっぽいぞ。とシンジは少し嬉しくなってきた。

「封筒を渡したら、そのおばさんが君に渡してくるものがある。それを受け取って、そ
のおばさんの指示に従え。何か質問は?」

「仕事はそれだけですか?」

「行けばわかる」

「終わったらここに戻ってくればいいんですか?」

「最後まで行ったら、そこにいる者が君にバイト代を払う。一万円だ。その後は、ここ
には戻ってこなくていい」

「わかりました」

 シンジは思った。

(こんなことって本当にあるんだなあ)


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 雑居ビルを出たところで、黒服の男二人に鉢合わせした。というよりも、彼らがシンジ
を待ち構えていたのだ。

 いきなり目の前に人が現れて、シンジは一瞬驚くが、すぐに見慣れた顔であることに
気づく。シンジのガードだ。いまだにシンジたちチルドレンには護衛として彼らがつか
ず離れずついてくる。これもエヴァパイロットとしての宿命か。

 アスカの買い食い対策として練習したクッキーも、多めに焼き、日ごろのお礼として、
彼らに渡したりしている。

 本当にアスカは食にうるさいように見えて、実は何でもいいのだ。シンジがいないと
スナック菓子だけでお腹いっぱいにしてしまう。子供の頃に親と料理をした記憶がない
から、食事とは基本自分で作るものだという発想自体が無いのだろう。

 誰だって四歳から親と離れて暮らしていたらそうなる。むしろ自炊をするシンジが例
外ということになるだろう。

 シンジは先生のところに預けられていて、その家で料理はしていたから、逆に友達と
外で何か食べるという行為は、中学に入ってからだったりする。

 口に入るものは、体を作るもの。

 当たり前のことだが、シンジとしてはその考えのもとに料理をしている。

 だから食材には気を使う。そしていくら体に良いとしても同じものばかり食べている
のも良くない。

 ある研究によると、一週間のうちに同じ料理を二回以上食べると、認知症のリスクが
高まるという。その説を信じるとすると、金曜の夜に作ったカレーを土曜日の朝に食べ
たら、もうアウトだからそこまでこと細かにはしないようにしているが。

 アスカが外で買い食いしているかと思うと、シンジはいたたまれなくなる。妙な使命感
も湧いてくるというものだ。

 彼女の食生活は僕が守ると。

 そんなシンジだから、クッキーを焼くくらいはお手の物だ。

 護衛の黒服ともそれなりに良好な関係を築いているとシンジは考えている。

 それなのに、今日の彼らの雰囲気はどうだ。彼らの周囲の空気がピリピリしているの
がわかる。

「碇シンジくん」

「はい」

「そのビルの中で何をしていたんだい?」

「あの、バイトをしようと思って、面接です」

「どうしてバイトを? こんな怪しげなビルで?」

 バイトをしたい理由は言えるわけがない。アスカのプレゼントを買うからだ。それを
顔見知りだからといって、言うのは恥ずかしい。そうした年頃だ。

 それでシンジは、数年ぶりに、逃げることにした。「言えません!」

 ガードの黒服たちは虚をつかれた。ネルフに来て、最初のうちにシンジが家出したこ
とがあったが、あれは数年前のことで、今のシンジは精神的に大人になったし、落ち着
いている。

 アスカの食事を世話することで、彼自身が成長したということだと大人たちは見ていた。

 だから大人たちはシンジを誤解していた。世話のかからないいい少年だと。だが現実
は違う。素直に従うことが、精神的な成長の証ではない。それは幼い子供の時にだけ、
手放しで褒められる性格なのである。

 シンジは高校生だ、とっくの昔に自我の芽生えは終え、自己というものは構築されつ
つある。だから嫌なことは嫌と言うし、他に手段が無いのなら、逃げる時は逃げる。

 まだそれが理解できない黒服たちは、シンジが言うことを聞かず、逃げ出したことに
焦ってしまう。

 アスカの食事の面倒を見る。イコール、自分の食生活も模範的かつ理想的なものになる。

 高校に入ってからの二年で、シンジは背が伸びた。遺伝もあるが、良い食生活が彼の
成長に寄与したのだろう。

 足も伸びた。だから、シンジは足が速い。あっという間に黒服たちから距離を取り、
駅へと駆け抜けていく。

 あのシンジくんが? と二人の黒服は思った。

 あんぐりと口を開けて、消え去るシンジの背中を見ていた黒服たちだが、しばらくし
てようやく我に返る。

「おい。本部へ連絡だ!」

「あ、ああ。わかった」

 闇雲に走っても、追いつけないだろう。後悔と焦燥が、二人の黒服の胸の内で渦巻い
ている。


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「もういいかな」

 夢中で走っていたシンジは、かなりの距離を走っていた。息が上がる。手にはしっか
りと封筒が握られている。

「これを渡すのか。おばさんが本当にいるといいけど」

 なんとなくあの場の空気に呑まれて、バイトを受けたはいいものの、よくよく考えれ
ば、そのおばさんがいるかわからない。

 まさか、誰かをからかって喜ぶ為に、こんなバイトの募集をしているとは思わないが、
どういうことなのだろう。

 駅前に行って、シンジは驚いた。

 買い物カゴからネギが飛び出ているおばさんが、何人もいる。まるで間違い探しだ。
そんなに皆ネギを買うんだとシンジは思うが、よく考えればネギは風邪の予防にいい。
シンジも買い置きをするくらいにネギは買う。

 これは気をつけないと、とシンジは気を引き締めた。


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 ネギを三本持ったおばさんを見つけた。

 シンジは慎重に声をかけることにする。

 知らない人に声をかけるのが苦手なシンジは、どうしようかとおばさんの周囲で少し
躊躇ったが、これをやらないとバイト代が貰えないし、そうなるとアスカへのプレゼント
が買えない。

 勇気を出して声をかけた。思ったより簡単だった。

 封筒を受け取ったおばさんは、中を見て、嬉しそうに頷いた。そしてシンジに頭を下
げる。

「持ってきてくれて、どうもありがとう」

「いえいえ。仕事でやってるだけですから」

「そうは言っても、こんな嬉しいことはないわ」

 封筒の中身はなんだったのだろう。シンジは中を見る暇もなかったし、元から見るな
と言われていれば、真面目な性格の彼のこと、そんな気も起きないが、気にはなる。

 おばさんは、辺りを気にしながら、レジ袋から黒くて小さな箱を出す。

「これを今からいうところに持って行って。だけど、箱の中は絶対に見たら駄目よ」

「わかりました」

 そう言ったシンジは、これあと何回続くんだろうと思った。


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(なんでこんなことに)

 シンジは今、高級ホテルの最上階スイートにいる。

 それが室内であれば、珍しい体験だ、で済むのだが、残念ながら外だ。

 下を一瞬だけ見て、後悔した。地上は遠く、人も車も小さく見える。平衡感覚がおか
しくなりそうだ。

 風が少し吹くだけでも怖い。シンジは外壁にへばりついている。

 おばさんの言うとおりの場所に行くと、今度は老人がいた。黒い小箱を渡すと、老人
は感激した様子でシンジの手を取り、お礼を言った。

 その老人からブリーフケースを渡されて、指定された場所に行くと、二十代のお姉さ
んがいて、これまた中を見て、シンジに抱きついてお礼を言った。

 そして、お姉さんから紙袋を渡されて、途中、黒服たちに見つかりかけて必死に逃げ
つつ、向かった先がこの高級ホテルの最上階だった。

 スイートの部屋に辿り着き、中に入れてもらう。待っていたのは三十前後の男だった。
気さくな笑い顔から、シンジはなんとなく加持リョウジを思い出した。

 別に加持は死んでいないが。

 男は紙袋受け取ると、中をあらためて、しんみりと泣き出す。

 これにはシンジも慌ててしまう。「だ、大丈夫ですか」

「ええ」自分のハンカチで涙を拭いながら、男は頷いた。「運んでいただいて、どうも
ありがとうございました」

 男は紙袋を胸に抱えたまま、深々とシンジに頭を下げた。

 シンジはただ言われた通りに運んだだけだから、そこまでされるとむしろ恐縮してし
まう。

「これを君に預けます。今から言う場所で待っている人に、渡してください」

 茶色い皮袋を渡された。

「これを次はどこに?」

 シンジが聞くと、ドアがノックされた。

 シンジと男は同時にドアを顔を向けた。

「碇シンジくん。そこにいるんだろう。君を保護しに来た。ここを開けてくれないか」

「しまった。もう居場所がバレたんだ」

「君は追われているのかい?」

 男が聞いたので、シンジは頷いた。説明すると長くなりそうだ。ついでに言うと、今
ここで保護されてしまうと、バイトが続けられない。

「そうか」男は窓へと近づき、開けた。外から風が入り込み、二人の顔を撫でた。
「こんな方法しかなくて申し訳ない」

「なんですか?」

 聞いてはみたものの、言わんとしていることはわかる。窓の外に出て、逃げろと言う
のだろう。

「隣の部屋からホテルの外壁に沿って、隣の部屋に行ってくれませんか」

「隣の部屋ですか」

「そうです。本来なら、この部屋を出て、廊下から隣の部屋に行って貰うつもりだったん
ですが、こうなっては仕方ない。イレギュラーですが、許容範囲だと思います」

「これって一体、何なんですか?」

「悪いがそれは教えられないんです。君が僕らの為に運んでくれているものは、凄く大
事なものだ、としかね」

 何だか納得のいく答えではないが、アスカの誕生日プレゼントの為だ。シンジも今更
引き返せない。

 窓から顔を出した。窓辺から隣の窓までは、外壁から足場になりそうなスペースが続
いている。壁にぴったりと背をつけて歩けば、なんとかなりそうだ。

 怖くて足がすくむが、進むしかない。

 シンジは自分を鼓舞する為に大声を出した。

「くそっ! こんなこと早く終わらせて、アスカのプレゼント買うんだ!」


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 ちょうど、アスカはネルフの作戦室にいて、モニターを見ていた。

 その場には葛城ミサトも、赤城リツコも、オペレーターたちもいる。

 シンジが怪しげな雑居ビルに一人で行き、保護しようとした黒服たちを振り切って逃走。
一時ロスト。何らかの事件に巻き込まれた可能性あり。

 そんなことを聞かされては、アスカも心配になろうというものだ。

 黒服たちがシンジがいると思われるホテルの一室の前に駆けつけたまでは、把握して
いる。

 展開が急すぎて、付近一帯を封鎖するだけの人員も確保できていないという。

 アスカは、何もできない自分が歯痒い。

 その時だ。複数のカメラがホテルを移していたが、一台のカメラが何かを見つけたら
しく、画面がズームし、拡大した。

 モニターにはシンジが映されている。彼の口が動いた。何かを叫んだようだ。

 真剣な目でモニターを見つめていたアスカは彼の口を見ていた。

 口の動きがわかる。三年の間、見てきた唇だ。何と言っているか、簡単な単語ならわ
かる。

 シンジの唇は、たしかにこう動いた。

 あ す か

(アスカ? あたしを呼んでる?)

 彼女の名前を呼ぶときと同じ動きだ。間違いようが無い。他にも何か言っているよう
だが、少なくとも彼が自分を呼んでいる。

 そう思った時、既にアスカは行動を開始していた。

「シンジくん! 何てことを!」

 ホテルの外壁をそろそろと歩いているシンジを見て、ミサトが悲鳴をあげた。

 アスカも、もしもシンジが落ちたら、と思うと心臓が潰れそうな思いもするが、今は
彼を信じて、彼のところに行くのが大事だ。

 アスカはおもむろにミサトに近づくと、そっとミサトが着ているジャケットのポケット
に手を入れた。

 目当てのキーが指先に触れたので、静かにつまみ出す。

 大丈夫のようだ。誰もがモニターに気を取られて、アスカの動きに気づいていない。

 アスカは振り返りもせず作戦室を出た。


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 惣流・アスカ・ラングレーは車の運転ができる。

 そのことをネルフの関係者なら知っているが、日本の法律では十八歳にならないと免
許が取れないから、その技術を使う機会がなかった。

 だから誰もが、その事実を忘れていたのだ。

 理由はわからないが、高級ホテルの外壁のへりにシンジが立っていて、彼女の名前を
呼んだ。それだけで、アスカが動く理由としては十分だ。

 なるべく早く移動する手段として、アスカは車を選んだ。キーを手に入れられやすそ
うだという理由で、ミサトの車を使う。

 もちろん、無免許運転だ。だが、シンジが自分を呼んでいるのだ。なら、その力を今
使わないでいつ使うのだ。

 後で盛大に怒られるだろう。未成年の無免許運転は、免許取得の欠格事項に該当する
から、もしかすると来年の誕生日が来ても、免許が取れないかもしれない。

「それがどうしたっていうのよ」アスカは呟いた。

 そんなことは、シンジを助けに行かない理由にはならない。

「シンジ、今行くわよ」

 昔は自分を鼓舞する為に、自分に語りかけていたものだ。今は、名前を呼ぶ相手がい
る。まだそこまで親密な関係になってはいないが、いるというだけで彼女にしたら十分
だ。

 きっちりシートベルトを締めたアスカは、アクセルを踏み込んだ。


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 ゆっくりとした足取りで、シンジは壁のへりを移動する。

 目的の場所である隣室の窓を見ると、すでに開けられていて、部屋に移ると、恰幅の
良い中年男性が待ち構えていた。

 身なりもよく、服飾関係に詳しくないシンジでも、裕福なのだろうと人目でわかる。

 太っていて、喉が圧迫されるせいか、声が太い。

「ここまでよくぞ来てくれた。君の仕事に対する責任感と勇気に敬意を表したいけれど、
まずは持っているものをこちらにくれるだろうか」

 シンジが、そっと皮袋を差し出すと、太った男は太い指に幾つも指輪をした手で受け
取った。

「ありがとう。ちなみに中身を君は見ていないね?」

「はい」

「すまない。信用はしているのだが、それでも確かめずにはいられなくてね。まあ、見
たところで、何でこんなものを運んでいるのかと呆れるかもしれないがね。私にとって
は大事なものだ。他の人にとってはそうではないだろうが」

 言ってから、男はくぐもった笑い声を漏らした。

 そして、皮袋の口を開き、男は中を覗いた。頬の肉に押されて元から細かった目が、
さらに細められた。何度も満足そうに頷いている。

 いったい中身は何なのだろう。そしてこのバイトは何なのだろうか。シンジは気にな
って仕方ないが、散々苦労してここまで来たのだ。もう気にしないことにした。

 犯罪などとは無縁そうだし、さっきの窓渡りは怖かったが、あれをやったら、大抵の
ことは何でも来いだ。

「では、君にこれを渡す」

 赤い光沢のある紙でラッピングされた小箱を渡された。

「今までと同じく、絶対に中を見ないでくれ給えよ」

「わかってます。どこに持って行けばいいですか」

「場所はね……」

 驚いたことに、フェリックス・シュトラウスの店だという。シンジがプレゼントを買おう
と思っているブランドショップだ。

「そうそう君に朗報だ。次が最後だよ」

 終わると思うと少し寂しいが気もするが、終わらないとバイト代が貰えない。シンジは
ほっとした。終わりが見えるのと見えないのでは、力の入りようが違う。

 部屋のドアが遠慮がちに叩かれている。すまなそうに外から呼びかける声もする。

 ここは高級ホテルのスイートだ。一泊何十万円もする。必然的に利用客は、政治的も
しくは経済的に高度な人間ということになる。

 黒服たちも、何の事件かもわからないうちから、強引に踏み込もうとするには精神的
にブレーキがかかる。『あの頃』のネルフほど、今のネルフには力が無い。

 恰幅の良い男は、ドアから目を離し、シンジに笑いかけた。

「ああ。誰か来てしまったようだね。君とはもう少し話をしたかったが、ここまでのようだ」

 どうしようとシンジは絶望的な気分になる。せっかく最後までやり遂げようと決意し
たのに、黒服に保護という名の拘束を受けたら、かなりの時間がロスになる。それは
バイトが続けられないということだ。

「こういう時の為の、この部屋だ」

 ここまでかと覚悟を決めようとしているシンジを横に、男はゆったりとした動きで、
壁にかかった額縁を動かした。

 それに連動して、床の一部がシンジの目の前で音もなくゆっくりとスライドし、下へ
続く階段が現れた。

「君、これで下の階に行きなさい。警察も、この階には来ているが、下の階には流石に
人をやっていない筈だ。あとはエレベーターを使わず、非常階段で降りるんだ」

「ありがとうございます」

「いやいや。こちらこそ、私の大事なものを運んでくれてありがとう。そうだ、これを
着ていきなさい。すこしばかりの変装にはなるだろう」

 シンジは灰色のパーカーを渡された。

 胸に「Don't panic」とワッペンがついている。

 意味としては、平常心というのに近いだろうか。

 さっきまでの服装の上から着こんで、胸のジッパーを上げた。パーカーのフードをか
ぶる。これなら、さっきまでのシンジの服装を元に探している黒服たちも、ぱっと見た
だけでは気づきにくいだろう。

「ありがとうございます」

「どういたしまして。では気をつけて」

 シンジは、ゆっくりと階段をおりた。

 下の階は、先ほどのスイートに雰囲気は似ているが、少しだけ狭い気がする。ジュニ
アスイートやセミスイートというランクだろう。それでも、普通のシングルやツインに
比べれば、段違いに広い。

 誰もいない部屋で、静かだった。シンジはその静寂を破らないように、そっと歩いて、
ドアに近づいた。

 ゆっくりとドアを数センチほど開けて、シンジはドアの隙間から廊下を見た。見える
範囲に人の姿はない。ドアが邪魔して、反対側が見えないが、いつまでもここにいられ
ない。意を決して、廊下に出ることにした。

 廊下は静かだ。まるで世界が寝静まったかのように静かだ。

 廊下の案内板をもとに、非常階段へとシンジは急いだ。


   ■■■   ■■■   ■■■


 歩いている途中で、シンジのケータイ電話が振動した。マナーモードなので、それは
震えただけだが、緊張している今のシンジは、飛び上がらんばかりに驚いてしまう。

 誰だろう。

 見ればアスカからのメールだ。

 階段をおりつつも、内容を確認する。

「件名:今、どこ?
 内容:ホテルにいるのよね。車で迎えに来たわ」

 読んだシンジは、少し緊張がほぐれる。だが、彼女になんと説明しよう。バイトの理
由も話せない。だけど、来てくれたと思うだけで、シンジは安堵する。まるで暗い道を
一人で歩いている時に、遠くに家の明かりが見えた、そんな気分だ。

 すぐさま返信する。

「ホテルの非常階段。そのまま外に出るよ。灰色のパーカーを着てるから」

 非常階段でホテルの外に出ると、待ち構えていたかのように青い車がシンジの目の前
に止まっている。

 見慣れた車。ミサトの車だ。

 中の人影が動いて、助手席のドアが開けられる。

「早く乗りなさいよ」

「う、うん」

 それにしても、どうしてここがわかったのだろうと、シンジは頭の上に幾つもクエッ
ションマークを浮かべながら、助手席に乗り込んだ。

「いたぞ!」

 と背後の方で声がして、シートから顔を出すと、一人の黒服がこちらを指差している。

「ちっ。気づかれたか。行くわよ!」

 シンジがシートメルトを締める間もあればこそ、アスカは車を急発進させた。


   ■■■   ■■■   ■■■


 ダイアヤモンドは、炭素の同素体であり、地球上で確認されている物体の中において、
最高の硬度を持つ宝石である。

 シンジは誰かから聞いたことがある。ダイヤモンドを扱ってこそ、ブランドは真の一流
ブランドたりえるのだと。

 目指すショップ、フェリックス・シュトラウスは、第三東京市の高級ショッピング街
に一棟建てで店を構え、ダイアモンドやシルバーの他、服飾も扱っており、普段のシンジ
なら、気が引けて、まず足が向かないほどの高級店だ。

 その店に来るまで大変な道のりだった。まず黒服たちの車をまく為に、アスカが運転
するは大通りを疾走した。その後、Y字路を右に行くと見せかけて左折し、地下道を走
り、裏通りをポリバケツを跳ね飛ばしながら走って、どうにかフェリックス・シュトラウス
まで辿り着いたのだ。

 普段のシンジなら、こうした店に来る幼児が無い。

 それでも今はバイトだからということで、車から降りたシンジは建物の周囲をぐるっ
と回って、従業員出入り口を探しだした。扉の横にはインターホンがある。

 押したものかどうか迷っているシンジの横で、アスカが早くしなさいよとばかり
に、せかすオーラで彼の肩を焦がす。彼は慌ててインターホンを押した。

 出た相手に、シンジはインターホン越しに話しかける。

「お届けものです。えっと頼まれて持ってきただけで、中身はわかりません」

 中に入り、店のスタッフ用通路を歩いた。ブランドショップだけあって、通路まで洒落
ている。淡いクリーム色の壁紙には、フェリックス・シュトラウスのエンブレムが規則
正しく配列されている。

 通された先は、一番奥の部屋だった。内側からドアを開けてくれたのは三十代くらい
の男で、いかにも業界人という髪型とスタイルで、目から放たれる光が強い。

 奥の机には白髪まじりの六十代の男が座っていて、シンジを見ると待ちかねたように
イスから立ち上がった。

「本物じゃん」とアスカが言っている。

 シンジは何が本物なのかわからない。彼は雑誌を読まないから知らないが、その男こ
そ、オーナー兼デザイナーのフェリックス・ストラウスである。

 フェリックス氏は数歩でシンジに近づくと、若い方の男に声を掛けた。

「すまないが、彼らと私だけにしくれないか」

 男は無言で肩をすくめ、部屋から出て行く。

 ドアが閉まるとフェリックス氏はシンジの真正面に立つ。

「やあ。君か。ありがとう。預かりものを持ってきてくれたんだって?」

「はい。これなんですけど」

 シンジが光沢のある赤い紙でラッピングされた小箱を渡すと、白髪の男は「失礼」と
言って、小箱を抱えたまま、部屋の隅に移動した。シンジとアスカに背を向けたまま、
彼は小箱の中身を確認しているようだ。

 ほう、というため息と、その後に「神様感謝します」という呟きがシンジとアスカに
は聞こえた。

「ちょっと」アスカがシンジの耳元に顔を近づけて囁いた。「何なのよ」

「僕にもわからないんだよ」

「何かアブナイもの運んでるんじゃないでしょうね」

「それはないと思うよ。皆、中を見て、喜んでるわけだし」

「アンタ、ほんと気をつけないと、いつか悪いことに利用されるわよ」

「なんだよ。アスカには関係ないだろ」

 アスカは言葉にならない、形にならない、痛みでもなく怒りのような、ないまぜになった
ものが口から零れそうになって、飲み込んだ。

 関係あるわよ! と言ってしまいたいが、それを言うと今の関係が終わってしまう。
新しい関係が始まるのは間違いないが、その関係が二人にどう影響するのか、わからな
い。だからその言葉は、彼女が迂闊に口にできるものではない。

 こんなことでケンカしたいわけじゃないのに、とアスカが思っていると、フェリック
ス氏が振り返った。

「君、ありがとう。ぜひとも、お礼がしたい。どうぞこちらに」

 フェリックス氏に案内されて、店内へと移動した。

 広い空間は、暖かみのある照明でさらに広く感じられる。ゆったりとした間隔で陳列
された商品と、ショーケースに入ったアクセサリーの数々。

 シンジは自分が着ている服装を見返した。善意の貰い物に対して言っては失礼かもし
れないが、パーカーでいいのかな、とシンジは不安になる。完全に場違いな気がする。
アウェーと言ってもいい。

「私は、ここのオーナーのフェリックス・シュトラウスだ。私の大事なものを君が運ん
でくれて本当に感謝している。ほんの気持ちだ。この店にあるもので、君が気に入った
ものを一つ、私から君にプレゼントさせてもらえないだろうか」

「すっごい!」

 これにはアスカが興奮した。

 しかし、シンジは冷静だ。

「ありがとうございます。折角ですけど遠慮させてください。気持ちだけいただきます」

「どうして!?」

 シュトラスが驚くのを見て、アスカは思った。納得もしている。むしろ彼女の中では
シンジに対する再評価の機運が高まるというものだ。

(やっぱシンジはシンジね)

 安心する反面、こんなに人が良くて無欲な性格で、これからも生きていけるのかと思
うと、ハラハラする気持ちもある。

 フェリックス氏としては、気持ちというものは金額ではないことは知っている。が、
例外があることも知っている。

「押し付けるつもりはないけれど、私のお礼の気持ちだ。遠慮しているならそれは無用
というものだ」

「今日は仕事で来ましたけど、明日、客としてここに買いに来ますので、今と似たよう
な格好でも、入店拒否しないでいただければそれでいいです」

 シンジはそう言って、アスカをチラリと見た。見たことに気づかれないように彼は見
たつもりだろうが、アスカはしっかり気づいている。

(なになに?)

 とアスカは唐突な事態に混乱している。

(なんでアンタここで買い物しようとしてんの? アタシだって来たことないのに。シンジ
ってファッションとかに興味なんて無いじゃん。いっつもアタシが買い物つき合わせて
センスをを磨こうと必死になってんのに、自分は漢字のTシャツばっか着て。今日だって
横文字のパーカーだと思ったら、結局『平常心』だし。そのアンタがなんで? 知らない
みたいだから教えてあげるけど、ここってブランドショップなのよ? なんで明日来ようと
か思ってんの?)

 それはアスカの誕生日が近いからなのだが、アスカはそれに思い至らない。いや、賢
い彼女はその可能性にはとっくに気付いているが、もしもそうでなかったとしたら。そ
の時の傷の深さは想像もつかない。

 だから、あえてそこから目を背けている状態なのだ。

 そんなアスカの果てしない空回りに気づかず、フェリックス氏はシンジに言い募った。

「その明日に買う分を、今日ここで私からプレゼントさせてもらえないかな。どれを買う
予定でいるんだろう」

「いえ。違うんです」

 シンジは本当に困ってしまう。フェリックス氏の厚意はありがたいが、彼が考えるプレゼ
ントというものは、そういうものではない。

 そして彼の気持ちを傷つけないように断る為には、明日買う物の意味を話す必要がある。

 果たしてアスカの前で言ってもいいものだろうか。だが言わないと断れなさそうな空気
をフェリックス氏だけでなく、アスカまで出している。

 仕方ないな、とシンジは言うことに決めた。

「僕は明日、女の子への、あの、アスカって言うんですけど、プレゼントを買うつもり
なんです。だから人から貰ったものをプレゼントとしてあげるのは、ちょっと違うかなって。
そんなに高いものは買えませんけど、プレゼントは自分で働いて稼いだお金で買いたい
んです」

 シンジの言葉を聞いたアスカの胸に、

 すとん。

 見えない矢が刺さった。ちょうど胸の真ん中だ。誰にも見えないけれど、アスカには
刺さった実感がある。

 前にも刺さっているから、わかる。

 一度や二度ではないから、わかる。

 矢の実感はすぐに消えるが、感触は残る。それは嫌な感じではない。

 嬉しさや恥ずかしさが高まって、立っていられなくて、アスカは腰が抜けた。

 床に垂直に崩れ落ちるアスカの体を、反射的に動いたシンジが両腕で支えた。

「アスカ、大丈夫?」

 必然的に、抱きかかえられる格好になる。より正確には、激しい社交ダンスの決め
ポーズに近いが、シンジとしては真剣だ。

(駄目だ。アタシ、シンジに殺される。好きすぎて殺される)

 よくわからないが、彼女の心は高まる。このままだと、興奮で死んでしまうが、かと
いって、彼の腕を振りほどけば、床に倒れてしまう。第一、振り払う気持ちなどない。

 体中の血が、激しく脈打っているのがわかる。それがシンジにバレなければいいとアスカ
は思った。だけど、それに気づいても欲しかった。

 人生は二択ではないのだとアスカは知る。それはどちらとも選べないし、真ん中でも
ない。

 いつまでも動かないアスカを見て、シンジが言った。

「すいません。彼女が具合悪いみたいなんで、どこかで休ませて貰えませんか」

「あ、ああ。もちろんだよ」

 アスカはスタッフルームのベンチに寝かされた。額にはシンジが冷やしてきたハンカチ
がのせられている。

(帰りは車の運転は無理ね)

 とアスカは思った。ちょっと色々ありすぎて、集中して運転できる自信がない。

 その頃、シンジは横になって休んでいるアスカを真剣なまなざしで見つめている。

 彼はこう考えている。

 こうしたことが起きた時に困らないよう、早く車の運転ができるようになりたいもの
だと。

 来年の六月にシンジは十八になる。車の免許が取れる年だ。今から準備を始めようと
思った。

 現実的には、誕生日の一ヶ月前から通うことになるのだが、それはまた来年の話だ。

「イカリくんだったね。こんな時で悪いが、私はこれを君に渡すことになっている」

 シンジはフェリックス氏から封筒を渡された。

「ここが最後だと聞いてたんですけど、次もあるんですね」

 アスカをここに置いてはいけない。バイトはここまでか、とシンジはすこしがっかり
した。プレゼントを買うと言ったのに、これでは買えそうもない。

「違うんだ。君の仕事はここで終わり。だからそれは、今日のバイト代だよ。まぎらわ
しいことをして、すまんね」

「あ、ああ。そうなんですか」

 良かった、と思った。なんだかほっとする。

「これって、開けてもいいんですか?」

 今日は何度も、中を見るなと言われ続けてきたので、未開封の封筒を渡されると、開け
ることに戸惑いが出る。これも職業病というのだろうか、とシンジは考えた。

「もちろんだ。全員を代表して君にお礼を言うよ」

 中には、一枚の折りたたまれた便箋と、それに包まれた一万円が入っている。

 丁寧に一万円札を封筒にしまい、シンジは便箋に目をやった。

 そこにはシンジ宛の手紙が書かれている。綺麗でも汚くもない文字で。

「バイトくんへ。

 これを読んでいるということは、君はどうやら最後まで仕事を完遂してくれたようだね。

 ありがとう。

 君みたいに真面目で誠実な人に仕事を頼めて良かった。

 いつか機会があれば、また頼みたいものだ。

 でもその時も、くれぐれも中身は見ないようにね。

 雇い主より」

 読み終えたシンジが顔を上げると、フェリックス氏と目が合う。ブランドショップの
オーナーは、肩をすくめた。何か聞かれても、何も答えないという意思表示だろう。

 シンジもこれに関しては何も答えるつもりはない。

 世の中にはわからないことがそれこそ沢山あって、すべてを理解することはできない。

 だとすればシンジが知りたいことは、アスカの具合は大丈夫かということと、今晩の
夕飯はどうしようかということだ。

 今はそのくらいで十分だった。

 外が騒がしい。何事だろうとシンジが窓の外を見ると、黒塗りの車が何台も停まって
いる。

 車からおりてくるのは、黒服たちだ。

 あとで滅茶苦茶怒られるだろうな、とシンジは今更になって思った。


    ■■■   ■■■   ■■■


 帰りはネルフの車で運ばれた。シンジとアスカは後部座席に並んで座っている。

 しばらく沈黙が続いている。

 アスカは窓の縁に肘を乗せて外を見ている。そんなふりをして、ガラスに映ったシンジ
を見ている。

 シンジは、ずっと黙りこくっていたが、意を決したようにアスカの方を向いた。

「ごめん」と言う。

 怒ってないのに謝られると、アスカとしては面白くない。シンジから見たら、自分は
怒っているように見えるということだからだ。

(アタシはそんなに年中怒ってるわけじゃないわよ!)

 と怒りそうになる。だけど、それは二人の関係としてはよくないことだ。相互理解が
必要よね。とアスカはすぐに自制した。

 自分は怒っていないということを見せる為に、アスカはシンジに顔を向ける。本当は
微笑みかけるくらいした方がいいのだろうが、そんな精神的な余裕はまだない。

 本当のことを言うと、彼女は恥ずかしさから、シンジの顔をちゃんと見れない。少し
目を逸らしてしまう。それでも、言うことは言う。

「何で謝るのよ。アンタ、謝るようなことしてないでしょ」

「せっかくアスカに内緒にしてたのに、プレゼントのこと、バラしちゃって」

 それか! とアスカは思った。それは確かに謝ってもらいたい。だけど、怒る話では
ない。果たして今年はプレゼントが貰えるのだろうかとやきもきしないで済む、という
のもある。

「い、いいのよ」

 アスカは、顔が熱いのが自分でわかる。社内が薄暗くて良かった。でないと、シンジ
にバレる。

「それと一人でやり通すべきだったけど、手伝って貰っちゃって。ありがとう」

「き、気にしないで。アタシが勝手にしたことだから。ていうか、シンジ。謝るなら、
あのホテルの外壁を移動してたのは何よ。落ちたらどうすんのよ。危ないじゃない」

「そうだね。あの時はとにかく夢中だったんだ。これができないとプレゼントが買えな
いって思ってね」

「そ、そう」

 アスカからしたら、なんだか凄いことを言われた気分なのに、シンジは平然としてい
る。たぶん、自分の言葉の意味を十分に理解しないまま言っているのだろう。

「次からは気をつけるよ」とシンジは言う。

「そうね。そうしなさい」

「それにしても、アスカは車の運転できたんだね。ガードの人たちをカーチェイスで振
り切っちゃうんだから、凄いよ」

 アスカは褒められると嬉しい。相手がシンジなら尚更だ。

「そうかしら? えっへっへ。だてに大学は出てないわよ」

 と得意げに話していると、それまで黙って助手席に座っていた黒服が咳払いをした。

「「ごめんなさい」」アスカとシンジは謝った。

 カーチェイスで振り切った当人たちの前で得意気に話をしてしまった。

 さっきも考えたけど、やっぱり車の運転ができたらいいよね。とシンジは思う。

 今日のようなことが、逆の立場であった時、車の運転ができません。では、アスカの
ピンチに駆けつけられない。

 来年の六月に、シンジは十八になる。そうしたら即、車の免許を取ろうと彼は再び決
心した。


   ■■■   ■■■   ■■■


 それからの一週間、アスカはとてつもなく長い時間を過ごすことになる。

 毎日、自分の誕生日が待ち遠しくて仕方が無い。

 眠り姫ではないが、誕生日まで眠りにつき、当日の朝に目が覚めたりできないだろう
かと真剣に思ったりもしたが、どうせ待ち遠しくて目が覚めてしまうだろうから、意味
はない。

 今の自分を見たら、一人で生きていくと決めた四歳の頃の自分はどう思うだろうか。

 弱くなったと言われるのだろうか。うらやましく思うのだろうか。

 それは今のアスカにはわからない。きっと四歳の自分だって、わからないだろう。

 今の自分だって、十年先のことなんて、わからないのだから。

 ただ、こうだったらいいなという希望はある。

 それに向かって歩み寄る努力もしているつもりだ。

 ただ、今の自分は幸せだと言えるから、つい現状に甘んじてしまっているだけであって。

 もっと欲しいものがあるが、それはじっくりといくつもりだ。

 結果が出るのは、もう少し先の話になるだろう。

 そして12月3日から4日へと日付が変わるとき、すでにリビングには、アスカだけ
でなく、シンジがいて、すでにロング缶の四本目に口をつけ、上機嫌なミサトがいる。

 数分前にシンジは、自分の部屋からアスカのプレゼントを持ってきている。どうも彼
なりにアスカには内緒で部屋から持ってきたつもりでいるようだが、アスカにしたらバ
レバレだ。

 しかし、彼女は気づいていない振りをする。

 23時59分になり、立ち上がったミサトがクラッカーの紐を手に、十秒前からカウント
ダウンを始める。

「10、9、8、7、6」

 シンジも照れながら立ち上がり、一緒にカウントダウンしている。実はノリがいいのだ。

「5、4、3、2、1、0!」

 で、ミサトがクラッカーを鳴らした。

 ヒューヒューと口で囃し立てるミサトを横に、シンジはアスカにおずおずと細長い箱
を差し出して、言う。

「お誕生日おめでとう。アスカ」と。


(了)