国連直属の非公開組織である特務機関ネルフ。

 そこで働く職員たちの間で、密かに広まる、幾つかの噂がある。

 たとえば、技術科所属のベテラン職員で、長老とあだ名される男は、
ななめ四十五度からのチョップであらゆる電気製品を直すことができる。

 エヴァンゲリオンですら、それで直したことがある。

 たとえば、赤木リツコ博士のラボで出されるコーヒーは旨い。

 こちらはあまり語られることはない。

 というのも、ネルフの作戦本部長である葛城ミサトが、気分転換を名目
に、コーヒーをたかりにラボへと、ちょくちょく出没するからだ。

 味覚音痴で有名な葛城一佐が喜んで飲むコーヒーなら旨いわけがない、
というのが噂話に興じる職員たちの統一見解である。


 碇シンジお誕生日記念SS
『リツコさん大失敗:前編「時間に愛を」』



 ニ○十六年六月四日。

 そんな噂を知らぬが仏の葛城ミサトは、今日もラボに現れる。かたわらに
加持リョウジを伴って。

「あら、こんな時間から二人で来るなんて、珍しいわね」

 リツコが言うと、ミサトは頭に手をやった。

「やー。コイツが朝から車で迎えに来てさ〜」

 言葉とは裏腹に、嬉しそうなミサトの横から、加持が口を挟んだ。

「違うだろ。あのな、リッちゃん。昨日、葛城と飲んだんだ。そしたらコイ
ツ、しこたま飲んでね。心配で朝、様子を見に行ったら、二日酔いで運転で
きるようじゃなかったんだ。それでだ」

「お酒もいいけど、ほどほどにね」とリツコは端末に顔を戻して言った。

 ミサトたちは、気分転換とは名ばかりで、酔い覚ましのコーヒーをたかり
に来たようだ。

 出されたコーヒーだけが作戦本部長の気分転換に貢献するわけではない。
もう一つの要素が必要だ。

 大学時代からの友人である、赤木リツコとの世間話である。

「それにしてもあんたって、ホントに冗談とか言わないわよね〜」

 生ビールのジョッキをあおるようにコーヒーを一息で飲み干したミサトは、
空いたマグカップを掲げ、マヤにお代わりを要求する。

「仕事にユーモアの必要性を感じたことがないから」

 キーボードを高速で打ち、端末にデータを流し込む赤木博士の指は止まら
ない。

「あら、ユーモアって人間関係の必需品だわよ〜」

「あなたみたいに交渉ごとが必要な部署の人はそうかもね」

 あえて否定するものなんなので、それだけ返す。

 あまりムキになって否定すると、ミサトが腰を落ち着けてしまう、という
こともある。

 適当なところで話の落としどころを作らないと、いつまで経っても帰らな
い。

 仕事中に話しかけられるの嫌ではないが、かといって長居されるのは面倒
くさい。

 大学時代からの旧友が遊びに来ても、赤木リツコは先ほどから顔も上げず、
振り返りもせず、端末に向い続ける。

「忙しそうね」

 空気を読んだわけではないだろうが、リツコの背中にミサトが声をかける。

 一段落ついたところで、リツコは眼鏡を外すと、椅子の回転を利用し、
大学時代からの旧友に向き直った。

「ミサトも知ってると思うけど、午後から初号機と弐号機の起動実験がある
のよ」

 あ、と口を開いたミサトの顔を見て、リツコはため息をついた。

「まさか、忘れてたわけじゃ、ないわよね?」


   ■■■ ■■■ ■■■


 午後からは初号機と弐号機の起動実験が予定通りに行われている。

 紫色と赤いエヴァンゲリオンが並ぶ実験室。その起動実験を監視する
モニター室で、リツコは物思いにふけっていた。

 彼女ほどの頭脳の持ち主になると、二つ以上の思考を並列的に処理するこ
とが可能である。

 むしろ、より深い集中に入るために、あえて別のことを考えるなど、ざら
にあるのだ。

 今も弐号機の起動実験のフローを確認し、それに基づいて得られるデータ
を分析しつつ、先ほどのミサトの言葉を反芻しているところだ。


『あら、ユーモアって人間関係の必需品だわよ〜』


 本当にそうかしら、とリツコは考えた。

 研究者である自分の立場に不満はない。母親の立場には、まだなっていな
いし、これからもならないだろう。それでは、女としての立場は?

 碇ゲンドウと彼女は、上司と部下という関係だけでなく、男と女の関係で
もある。

 ニ○十六年現在、ネルフという組織が形骸化してきているとはいえ、仕事
上での二人の会話は、当然ながら、エヴァに関してのこと、パイロットの運
用に関してのことくらいか。

 一人の女としてゲンドウに接する際、言葉が用いられることは、ほとんど
ない。

 今まではそれでも良かったが、最近、それ以上を求める欲が自分の中に
わきはじめていることに、彼女は気づいていた。

 今の関係が、向こうから変わることは想像しがたい。自分が変わるしか
ないのか。

 それで少しは冗談を言ってみよう、そう考えた赤木リツコ博士は、実験
終了のボタンを押すとき、なんの気なしにつぶやいた。


「ポチッとな」


 その瞬間、弐号機が、まばゆく輝いた。

 発した大量の光が、モニター室を照らしたせいで、室内は炎天下の路上の
ような白い明るさになる。

 その光は二、三秒でおさまったが、モニター室のクルーたちのどよめきは
おさまらない。

「只今のエヴァ発光時のエネルギー量、マイナスです!」

「エントリープラグ内のパイロット、生命反応に異常なし!」

「シンクロ率、よ、四十八パーセント! 過去のシンクロ率を大幅に更新し
ました!」

 内容は、リツコが実験から予測していた結果を明らかに超えている。

 叫ぶような声で、口々に現状を報告するクルーたちの戸惑う視線を一身に
浴び、リツコはとまどった。

 ようやく一言だけ返すのが精一杯なほどに。

「あ、あたしじゃ、ないわよ……」


   ■■■ ■■■ ■■■


 その後、すぐにリツコは平静を取り戻す。

「実験中止! パイロットの回収を最優先! プラグ射出信号、急いで!」

 クルーに次々と指示を出していく。

 まずは真紅のエヴァンゲリオンからエントリープラグが半分ほど飛び出し
たが、初号機はエントリープラグを射出しない。

 紫色の鬼は、唐突に動き、隣に立つ弐号機の肩に両手を乗せた。

「ダメです! 初号機! 射出信号を受け付けません!」

 マヤの叫ぶような声に、リツコは再び指示を出す。

「再度、射出信号! 電源プラグも外しなさい!」

 マヤが信号を発する前に、初号機からエントリープラグがこちらも半分ほ
ど飛び出す。

 プラグのハッチが開くと、中から碇シンジが飛び出した。

「うわー! 大変だ! アスカ! 大丈夫!?」

 実験場内で上げたシンジの叫びが、モニター室にまで響き渡っている。

 弐号機の肩にかけた初号機の腕をつたい、彼はアスカの乗るエントリー
プラグに駆け寄った。

「あの子、無茶して……」

 それを見ていたミサトが呆れたように言うが、今は彼女の言葉に反応して
いる時間がリツコには無い。

 シンジは弐号機のエントリープラグのハンドルに手を掛け、必死の形相で、
回し始める。

 ハッチが開くと、シンジはプラグに体を入れて中を覗きこんだ。

「アスカ! アスカ! 大丈夫!?」

 帰ってくるアスカの声は平静である。

「なによ、大声なんか出して」

「良かった。無事みたいだね」

「なんだってのよ。だいたい、レディーのプラグに勝手に入るなんて、って
アレ?」

 そこまで言って、アスカは驚いたらしく、動くのを止めた。

 いつも通りのアスカの声。いつも通りのアスカの態度。

「だって、実験中に弐号機がピカッと光ってさ。心配したよ、ってアレ?」

 そこでシンジは気づいた。

 アスカの外見が、毎日見ている少女の姿ではない。

 赤いヘッドセットを髪留め代わりに使い、肩より先に少し伸びていた紅茶
色の髪が、今は頭のてっぺんで左右に分かれ、顔の横を流れた後、鎖骨のあ
たりでウエーブを作っていて、大人らしい髪型になっている。

 身長はたいしてかわらないように見えるが、頬は少女期特有のふくらみが
消え、女性らしいほっそりとしたものに変化している。逆に胸は十五歳の時
よりも、多少ふくらみが増えているようだ。

 二人の叫びが、実験場内にこだました。

「「なにこの状況!!」」

 それを聞いたミサトとリツコは顔を見合わせた。

「どういうこと?」とミサトが聞くが、リツコも首をかしげている。

「アタシにもわからないわ」

 エントリープラグから出てきたアスカを見た作戦本部長は叫んだ。

「なにこの状況!」

 誰もが事態を把握できなかった。現状をうまく認識できなかったと言う
べきか。

 惣流・アスカ・ラングレーは大人になっていた。


   ■■■ ■■■ ■■■


 その後、アスカとミサトはネルフに残される。アスカは聴取される側と
して、ミサトは立ち会う側として。

「大丈夫かな……、アスカ」

 一人、コンフォートマンションに帰宅させられたシンジだったが、アスカ
のケータイにかけてみる度胸はないし、ミサトも忙しいだろうから電話をか
けるのは気が引ける。

 アスカを心配することと、気を揉むこと以外、何もできない自分が情けな
かった。

『こういう時、僕がもっと大人だったら、違うことができたのかな』
 
 そう考えつつ、簡単に食べられる料理を用意し、風呂を沸かす。その間、
何度も時計を見上げてしまう。

 あまりに時間の進みが遅いので、もしや時計が壊れているのではないかと、
耳を近づけたりもしたが、駆動音は確かに聞こえる。

 自分だけ夕飯を食べる気になれずにいるまま、時刻は午前零時を過ぎた。
日付は六月五日に変わる。

 空気がもれる時に似た、玄関が開く音がする。

「ただいま〜」

 アスカの声に、それまでキッチンで所在なげに座っていたシンジは、玄関
へと走った。

「おか、おかえり〜」安堵したからか、ついどもってしまう。

「あー。疲れた。ホント、もうカンベンしてほしいもんだわ。リツコも何回
おんなじ質問すれば気が済むのかしら」

 吐き出すように言ったのはアスカで、声からすると、相当疲れているよう
だとシンジは敏感に察知した。

 大人の体になったとはいえ、アスカはアスカだ。彼女の帰宅を出迎えた
ときと同じセリフを口にする。

「おつかれさま。お腹すいてない? 簡単なものだけど、用意してあるよ?」

 シンジの言葉に、腕時計に目をやったアスカは、首を振った。

「ありがと。でも、ニ十一時過ぎたら食べないって決めてるし、さっさと寝
ないとお肌のゴールデンタイムがもったいないから」

 彼女にしては珍しく、食事の提案を断られた。夜更かししている時は、晩
御飯をしっかり食べたにも関わらず、夜食を要求してくるほどなのに。

「じゃあお風呂は? 入るなら、すぐ沸かしなおすよ」

「あー。じゃ、お風呂は入っとこうかしら。ありがとね」

 早くお風呂をわかさなきゃ、そして早く寝かせてあげよう、と廊下を走り
出したシンジの背中に、アスカの歌うような声がかけられる。

「なんなら、アンタも一緒に入っちゃう〜?」

 それを聞いたシンジは、つるりとずっこけた。なんとか壁に手をついて、
転ぶのを避けることに成功したシンジは、振り返る。

 疲れたと言いつつ、アスカは腰に手を当てたポーズで、シンジにニヤリ顔
を見せている。二人が初めて出会った、オーバー・ザ・レインボウの甲板の
ポーズそのままに。

「な、ななな何言ってんのさ!」

「バカねぇ。冗談よ。冗談♪」

「まったく」

 ほっとしたような、残念なような気持ちがないまぜになって、ついシンジ
は憎まれ口をきいてしまう。

「さっきの事故で頭打ってないよね?」

「ぬわんでっすってぇ〜!!」

「なんだよ。こっちはすごく心配して待ってたのにさ。からかうなんて」

「う」と、息をのんだアスカの表情が変わる。

 心配されたことを嬉しがればよいのか、冗談を言って悪かったと泣けばい
いのか、それともシンジの言葉に怒ればいいのか。彼女にすれば、どれかの
ようで、どれも選べないようだ。

 そのあたりのアスカの機微がわかるほど、まだシンジは大人ではない。し
かし彼女を気遣うことができるくらいには大人である。

「ごめん。僕も悪かったよ。アスカ、疲れてるもんね」

「あ、ううん。いいのよ……」

 風呂場へ向かうシンジは、違和感を覚えている。

 彼女が食事を要らないといったことでなく、断る前に礼を言ったことに。

 断る前に礼を言われた。アスカがシンジに気を配る発言をしたことが、
違和感の正体だと気づくが、何が彼女をそうさせたのかまでは、まだわから
ない。

 その答えがなんなのかわからず、碇シンジは誕生日間近の夜を、一人で、
悶々として過ごすことになる。


   ■■■ ■■■ ■■■


 六月五日、午前七時半。

 全国的に朝である。

 食事の支度をしなければ、と眠たい頭のままダイニングキッチンに入った
シンジは、驚きで完全に目が覚めた。

 赤いエプロンを身につけた、アスカがキッチンに立っている。

「あらシンジ。起きた?」

 立ち尽くす彼を横目に見るアスカは、ちょうど味噌汁の味を確認していた
ようで、片手にもった小皿に口をつけているところだ。

「ご飯、もうすぐできるから、早いとこ顔洗って来なさいよ」

 ご機嫌な様子で、アスカはもう片方の手にあるおたまを軽く揺らす。

 前に一度だけ、彼女がエプロンをしていた時よりも、今の彼女のエプロン
は胸のあたりが盛り上がっていることを、思春期さなかのシンジは決して見
逃さない。

 料理をするアスカ、彼女の胸のふくらみ、自分を呼ぶ声、すべてが新鮮す
ぎて混乱した彼は、

「あ、ああ。うん。そうするよ」としか言えない。

 そんなシンジのうろたえぶりがおかしかったのか、アスカが吹き出した。

「ふふっ。なによ、その言い方。まるで、おと……。えーと。碇司令みたい
じゃない」 

 これが現実なのかどうか、シンジには曖昧になってきた。ぼんやりとした
感覚の中、顔を洗ったところで、家の電話が鳴る。

「悪いけど、シンジ〜。手が離せないの〜。電話でてくれる〜」

 というアスカの声をぼんやり聞きながら、受話器を上げれば相手はミサト
である。

「あ〜。シンちゃん? アスカの体がなんで大人に成長しちゃったのか、
まだわからないけど、リツコが今日か明日には元の体に戻せる予定で動いて
るから〜。アスカにも心配するな、って言っといてね。
それじゃ、ばはは〜い」

 それにシンジは「はい、はい」と、うわ言のように繰り替えした。

 キッチンに戻ると、テーブルには朝食の用意が整っている。

「はい」とアスカから渡された茶碗の温かさで、かろうじてこれが現実であ
るとわかる。

 ついで渡された味噌汁を前に、ようやくシンジは口を開いた。

「あの、いただきます」

「so bitte(さあ、どうぞ)」シンジに向かって両手を広げ、アスカは輝く
ばかりの微笑みを見せた。

 まあとにかく、彼女の料理は旨かった。

 味噌汁は、シンジの好きな薄味で、出汁がここしかない、というタイミ
ングでとってある。

 しらす干しの玉子焼きも、いつも彼が作るものと変わらぬ出来だ。

 作ったアスカへの礼儀として、そして正直な感想として、「おいしい」と
言うと、彼女はその度に、頬をゆるめた。

『凄いな。アスカの味、僕が作るのと一緒だ。もしかしたら僕のより美味し
いかも』

 そこまで考えたシンジは、昨夜から覚える違和感の正体に気がついた。

「アスカ」

 シンジが名前を呼ぶと、向かいに座って肘をつきながら彼の食べっぷりを
眺めていたアスカは返事をする。

「どうしたの? 早く食べないと、今日も学校でしょ? アタシはほら、こ
んなんなっちゃったから、自宅待機だけど。あ、そうそう。お弁当も作っと
いたから。おかずは朝と半分一緒になっちゃって悪いけど、久しぶりに……」

「アスカ」

 もう一度呼べば、彼女は喋るのをやめ、口角をゆるめることで、彼に続き
をうながしてくる。

「ミサトさんからの電話。今日か明日には、アスカの体、元に戻せる予定だっ
てさ」

「そ、そうなんだ。あ〜。良かった。大人になるのも悪くないけど、一段飛
ばしってのもね。うんうん」

 明らかに様子がおかしくなっている彼女を見て、彼は確信を深めた。喋ろ
うとして、彼は気づく。使徒との戦いが終わったとはいえ、まだ彼らの身分
はエヴァンゲリオン専属パイロットである。

 当然、暗殺や誘拐、不測の事故などに対するリスクマネジメントとして、
護衛は常時つくし、この部屋は聞こえは悪いが盗聴されている。

 そこでシンジは筆談で話をすることにした。

 まずは、以下のように書く。

『今のアスカ、ただ大人の体になったんじゃないよね』

「え」とアスカは真顔になる。すぐに口を手で覆い、うんうんと頷いた。そ
のあと手まねでシンジにペンを要求すると、シンジの書いた文の下に、ささっ
と書いた。

『なんで?』

 わかったの? という意味だろうとシンジは理解する。

『昨日の夜、ご飯食べなかった。二十一時以降だからって。お肌のゴールデ
ンタイム? 昨日初めてそうしようって決めた感じじゃなくて。いつもの習
慣って感じだった』

 無言でそう書く。書く時間が惜しいのか、それを読んだアスカはもう一度
うなずいた。

『それに昨日のプラグ内のことだってそうだよ。何この状況って、今のアス
カが大人の体になっただけなら言うわけないんだ。自分の外見がプラグ内で
見えないんだから」

 両手を挙げ、アスカは降参、というポーズを取る。

 シンジはさらに書いた。

『あの時、アスカが状況を把握したのは、プラグ内にいるってことと、今の
僕を見たからだよね』

 嬉しそうに目を細めたアスカはテーブルに身を乗り出すと、シンジの頭に
手を乗せ、髪をくしゃくしゃっとした。

 よくできました、ということだろうが、シンジにすればこっちは真剣な話
をしているのに、という思い半分、嬉しさ半分である。

 『あの頃』のアスカは、自信満々で溌剌としていた。しかし、シンジが今
にして思えば、そうであることを自分に強いていたようだった。

 目の前の成長したアスカも自信満々で溌剌としているのは同じだが、彼女
のそれは内側から自然とあふれてきているように見える。

 それがシンジには嬉しかった。理由はわからないが。

 閑話休題。

 シンジはメモに今回の核心を書く。

『未来を知ってるなんてバレたら、厄介だよね』

 未来がどうなるかを知ることは、とても危険なことである。

 良いことがあると知れば、人はそれに甘んじて今を怠惰に過ごすかもしれ
ない。まだ手にしていない貯金をあてにして生きるようなものだ。

 悪いことが起きると知れば、人はそれを回避しようと、今までしなかった
行動をする。今を生きることをせず、未だ来ていない事象のために生きるの
は、今という時間の浪費ではなかろうか。

 いずれにしろ、今をしっかり生きた結果が未来なのだ。

 アスカが顎で、リビングから玄関へと続く廊下を示した。外に出ようと言っ
ているのだろうとシンジは理解した。

 確かに、ここで筆談を続けるよりも、外で喋った方が話が早い。護衛が
付くとはいえ、それは一定の距離がおかれてのことなので、小声で話す分に
は聞かれる心配が無い。

『そういえば、今のアスカって何歳のアスカなの?』

 聞いてからしまった、と思う。レディに年を訊くなんて! と怒られるか
と思ったが、指で二十四歳だと返してくれたので、彼はほっとした。

 メモをガスコンロの火で証拠隠滅する。そこから作戦開始だ。

「さ、さーて、そろそろ学校に行かなきゃ。ごちそうさま〜」

「あ、あーら、それならアタシもゴミ出しに行こうかしら〜」

『アスカ、芝居が下手すぎるよ!』という目でシンジが見れば、アスカも
『なによ、人のこと言えた立場?』という目で見返してくる。

 これで今の問題も話ができれば良いのだが、そこまで便利ではない。
   

   ■■■ ■■■ ■■■


 部屋に戻り、シンジが学生カバンをリビングに戻ると、ゴミの袋を横に、
アスカが待っている。

 握った自分の拳を見つめ、シンジは小さくうなった。

『僕はもっとしっかりしなきゃ。未来から来たアスカの助けになれるのは僕
だけなんだから』

 そう考えた彼が目を開けると、そこにいたはずのアスカの姿が消えている。

「あれ? アスカ? どこ行ったの?」

 ついうっかり声に出して呼んでみたが、返事が無い。

『もう外に出たのかな、目をはなしてたのは、ほんの少しのはずだったのに』

 玄関に行ってみたが、彼女の靴はある。そういえば、玄関が開く時に必ず
聞こえる、巨大生物の呼吸に似た音がしなかった。

 脱衣所に入って風呂場をうかがうが、ガラス越しに見える風呂場には当然
いない。トイレも電気が消えていて、中に声をかけてから、おそるおそる開
けるとドアが開いた。

 アスカの部屋にもいなかった。もちろん、シンジの自室にもいない。

 果てはミサトの部屋まで探したが、彼女はいない。

 アスカが消えていた。

『どういうことだろ』

 考えて、考える。

 ダイニングキッチンにあるテーブルの周りをぐるぐるまわりながら、
シンジは考えに考えた。

 一つの可能性としてあげるなら、こういうことになるのだろうか。

『アスカは未来から来た』

『今の自分は彼女から見れば過去にいるわけで』

『さっき、僕は何を考えた?』

『まず、しっかりしよう。それから、アスカを助けよう、って考えた』
 
『それによって、今後の僕の性格や行動が変わって、そのせいで未来が
変わったとしたら?』

 普通であれば、シンジの推測は荒唐無稽なものかもしれないが、今は未来
から来たアスカがいるくらいだ。何が起こっても不思議ではない。
 
『もしかして、僕が考え方を変えたせいで、
 未来のアスカに干渉してしまった?』

『大変だ、どうしよう』

 焦るシンジの背後で、冷蔵庫が開けられる音がして、続いてプシュッと
音がする。缶ビールを開けた時の音が。

 振り返れば、未来のアスカが缶ビールを飲んでいるところだ。風呂上りに
牛乳を飲むように勢いよく。

「アスカ! なんでビール飲んでんのさ!」

 流石のシンジも腹を立てた。しかしアスカはどこ吹く風で、次のビールに
取り掛かり、だらしない話し方を、酔ったミサトと同じ話し方をする。

「あーによう。どうせ、シンジがいれば何らって〜。らいじょうぶ〜、なん
らから〜」

 ぐびぐびと、またビールを飲む。

「あてしのことは〜、どうせ何らってシンジがやってくれるんらから〜。
シンジにまかせといた方が、うまくいくにきまってんのよう〜」

 シンジは思った。

『あちゃあ。これはアルコール依存症かつ僕への依存症になった未来のアス
カだ』

『僕がしっかりしすぎて、何でもアスカの助けになったせいで、自立できな
くなったアスカだ』

 シンジは手を開いたり握ったりと、昔の癖をぶり返している。そして、
必死に自分に言い聞かす。行き過ぎた未来を取り返すために。

『あまりしっかりしないようにしよう。普通にそして適当にしっかりする
くらいになるよう、頑張るんだ』

 一度、天井を見上げ、よし! と自分にそう言い聞かせる。

 顔を元に戻すと、冷蔵庫によりかかったアスカがいなくなっている。

 成功か? とシンジは喜んだ。

 今度はどこに現れるのかと、見回すと当の彼女はリビングにいた。テレビ
を見ながら、白く背の低いテーブルの上に広げられたピザを食べている。

 へー。この時間でもピザのデリバリーって来てくれるんだ。と、一瞬、
現実逃避しかけたが、問題はそこにない。

 D型(耐圧耐熱仕様)プラグスーツを着込んだときの体型そのままの
アスカがいた。しかし、実際は着ていない。

「あ、アスカ山!」思わずシンジ四股名のようなものを叫んでしまうが、
誰かを不当に悪く言うつもりも傷つけるつもりも全くないと、彼の為に
弁護しておく。

 本当に、誤解しないでいただきたい。

「あーん? 徳川吉宗が享保の改革で造成した行楽地がなんだって〜?」

 アスカは面倒くさそうに返してくる。

「ピザも悪くないけど、早くアンタの料理も持ってきなさいよ〜。親子丼が
いいわ。親子丼が。おかわりが面倒くさいから、洗面器によそって来て〜」

 アスカ、ごめんね。また余計なことを考えたみたい。

 首を傾けて、アスカが視界に入らないようにする。

 普通にしよう、とシンジは必死に考えた。現在のアスカを取り戻すために。

 科学にあまり詳しくないシンジだが、未来のアスカが今ここにいるという
ことは、現在のアスカが未来に行っていることが考えられる。

 それが、シンジの杞憂なら、それでいい。しかし、もしもその通りだった
ら?

 現在のアスカは消えてしまうのかもしれない。そう考えたシンジはゾッと
した。彼女がいなくなる? そう思っただけで、目の前が暗くなるようだ。 

 うん。普通が大事だ、とシンジは決意した。

 力を入れるからよくないんだ。そうだ。僕は僕でしかない。僕は僕だ。
僕は普通でいいんだ!

 一抹の不安とともに再度アスカがいるはずの場所に目を向けると、
テレビは電源が切れた状態で、テーブルの上にあったピザもなく、彼女の
姿も消えている。

「あ〜。シンジだ!」

 振り返ればアスカがいた。

 相変わらず、成人したアスカだ。白衣を着込んだ彼女は青い瞳を潤ませつ
つ、シンジに向かって両腕をいっぱいに広げて近づいてくる。

 うおう。また間違えた。あと、アスカ、その仕種はどういうつもりなの?

 声にならないシンジの質問は、アスカの行動で答えられる。

 シンジの顔の横を通った彼女の腕は、彼の頭をからめ取った。

 その後、未来のアスカは、シンジの顔をしっかりと自分の胸に押し付ける。

 どういう状況なのかがシンジにはわかっているが、大きな枠で言うと何が
起こっているのか、わからない。

「嬉しい〜。シンジシンジシンジ〜。シンジが生きてる〜」

 シンジの名前を連呼しつつ、抱えた彼の脳天に、アスカは頬ずりを繰り
返す。

 嬉しいような、苦しいような、恥ずかしいような、それらの感情と、
アスカの胸が胸が胸が胸が、という、まあ、オブラートに包んだ言い方をす
ると思春期特有のリビドーがすべて混ざり合い、彼は気絶寸前である。

 そこでふと、アスカが発した言葉の中に、恐ろしいものが含まれていた
ことに思い至る。

 え? 僕、死ぬの?

 シンジは相手を傷つけないように、そっと押し返す。

「何よ。久しぶりなんだから、いいじゃないのよ。もっとこの喜びを堪能さ
せなさいよ」

「待ってよ、アスカ。僕、死ぬの?」

 よくよく見れば、今のアスカは髪はぼさぼさで、あちこちはねているし、
白衣もよれよれ。彼女の頬はこけている。今の彼女からはシンジの知ってい
る溌剌さを感じない。

「そうよ。二○十六年の六月五日。つまり今日にね
 それ以来さ、なんか……、アタシ……。
 なんでもっと優しくしてあげられなかったのだろうって
 後悔ばかりしてて……」

 気だるげに、髪の先をつまんでいるアスカは、シンジの知っているアスカ
ではない。

 反対の手は逃がさないとばかりに、シンジのシャツの裾を握って離さない。

 これはヤだ。死ぬのも嫌だけど、アスカがこんな情緒不安定で幸薄そうな
感じになるのは本当にダメだ。

 彼女のためだけでなくて、僕が嫌だ。

 何度か手を開いたり閉じたりし、最後は強く拳を握る。

 よし、今後は車に気をつけよう。あと赤信号も絶対に渡らないぞ。
 
 そう思って、シンジは拳を見てから顔を上げた。

 アスカは今しがた現れた姿のままだ。

 あれ? これってどういうこと? また間違えたのかな。

 疑問を感じていると、ベランダから甲高い声が聞こえてきた。

「そこまでよ! 動かないで!」

 シンジとアスカがそちらに目を向ける。

 たぶん、その時の光景は、誰も信じてくれないだろう。

 開いた窓の向こう、快晴の空が広がっているのが見える。そしてベランダ
には、三人の人間が立っていた。

 三人が三人とも、銀色の全身スーツ、顔の半分を隠している大きな
サングラス。

 白いベルトに白いリストバンド。手には光線銃のようなものが
握られている。

 グルグルと渦を巻いたその先端が、シンジとアスカに狙いをつけていた。

「へっ。変態!」

 アスカが怯えた声を出し、シンジに抱きついた。彼女の手は暖かかったが、
体はひんやりとしているのだと、気づく余裕がある彼は、大物になる素質が
あるのかもしれない。

「誰が変態ですか!」

 三人のうち、真ん中に立った人間が言い返した。声と話し方から女性であ
るとわかる。

「こちらはタイムパトロール隊です。あなたを時間旅行法、第三条第一項、
過去改変の容疑で逮捕します!」

「やっぱり変態じゃない! いい年こいてタイムパトロール? ここはSF
大会の会場じゃないわよ!」

 シンジにも何がなんだかわからないが、アスカっていい匂いがするよな〜。
と考えていた。勿論、口にすれば自分も変態扱いされるだろうから、そんな
ことは絶対に口にできない。

「どうする? シンジ」

 僕に聞かないでよ。

 と、その時。

「とおーっ」と「おりゃあああ!」という掛け声がした。

 その直後に黒い影が二つ、それぞれ左右から、ベランダに現れた。

 よく見れば黒服である。どこかで隠れていた護衛の黒服が二人、異変を
察知してベランダに飛び込んできたようだ。

 右側のタイムパトロール隊員は、右側から現れた黒服に手首を手刀で打た
れ、光線銃を取り落とした。

 左側のタイムパトロール隊員は、手を左の黒服に蹴り上げられ、光線銃は
空中をくるくると回りつつ、地上へと落ちていく。

 タイムパトロール隊員ともみ合ったまま、片方の黒服がシンジとアスカに
激しい口調で言った。

「君たち! ここはいったん逃げなさい!」

 はっと我に返ったシンジはアスカの手を引き、玄関へと走る。

 焦りつつも玄関で律儀に靴を履いてしまうのは、シンジの性格によるもの
だ。

 アスカもそれにならい、自分の靴を履くのを確認し、二人は玄関から外へ
と飛び出した。


 後編に続く