シンプルライフ 第七話

   『我が家が一番』 前編



 外で働く人間が一番ストレスを感じるのは、帰宅して家のドアを開ける直前だ
という。

 碇アスカは、それは嘘だと思う。

 彼女の息子であるタクトと娘のミライが起きている時間に帰ることができれば、
二人に会うことができるし、夫のシンジが子供たちが寝る前に絵本を読むのを、
アスカも一緒に聞くことができる。

 二人が寝ていたとしても、それはそれで、寝顔を見るという楽しみがある。

 さて、今日はどちらかしら、とワクワクしながら帰宅して家のドアを開ける。
ストレスが溜まる暇はない。

 もしかしたら、自分は例外にあたるのかもしれない、と考えることができる
くらいにアスカは大人になった。

 碇家の自動ドアが開き、彼女は玄関に入る。廊下の先のリビングから、子供
たちの声が聞こえてくる。夫であるシンジが子供たちに「寝る準備しようね」と
言っているのも聞こえてきた。

 しめしめとアスカはニヤーリと笑う。まだ子供たちは起きているようだ。とい
うことは、今日は二人に会える日だ。家族優先で仕事をすれば、会える日会えな
い日という区別はなくなるのだろうが、つい仕事のキリがいいところまでやろう
としてしまう。

 アタシも日本人になったもんよねー、とアスカはしみじみと思った。

 静かに靴を脱ぐ。自動ドアの音でシンジはアスカが帰ってきたことに気づいて
いるはずだが、子供たちはまだそこまで周囲に気を配ることができないので、パ
ジャマに一人で着替えられるとタクトの声がして、ミライはパジャマのボタンを
留めてとシンジに頼んでいる。

 アスカは廊下を、そーっと歩いた。突然帰宅した母を見て、子供たちが驚くと
ともに喜んでくれるだろうと思うと、うふ、と声が漏れそうになり、慌ててこら
える。

 銃撃戦中のガンマンのように、アスカは廊下の壁にぴったりと背をつけ、リビ
ングの様子をうかがった。

 まだ母親の存在に気づいていない子供たちの声が、こんころこんころと鳴る鈴
の音のようで心地よい。

「ただいまー」とほがらかにリビングに入ると、子供たちの動きが一瞬止まる。
二人の視線はアスカの顔に集まっている。

「ママだー」「ままー」と息子と娘が先を争うように自分に駆けよってくるのを、
アスカは床に両膝をついた姿勢で抱きとめた。

 さあ寝ようという直前に母が帰宅したものだから、子供たちの目はぱっちりと
開き、瞳が光ってキンキラと音が聞こえそうだ。

「アスカ、おかえり」

 シンジの声に、ただいまと返しながら、アスカは息子と娘の脳天に鼻をおしつ
ける。子供用シャンプーの甘い匂いがする。

 首にかじりついてくる子供の小さい手や柔らかい腕の温かさで、頬が自然にゆ
るむ。二人の子供の頬や額に、交互にキスをする。鼻を押しつける。その都度、
彼女の脳内に、心地よい火花が散る。

 きっとこの瞬間のことは、いつまでも忘れないだろう。だけど、明日も明後日
も、できればいつまでもこうした時間を味わいたいという気持ちもある。

 仕事の量、やっぱ調整した方がいいわね。

 アスカは密かにそう決心した。ありがたいことに、彼女が働くネルフという組
織は、時間や仕事量で評価することはない。結果がすべてだ。その分、厳しい面
もあるが、彼女はかつてエヴァンゲリオン弐号機パイロットだったのだ。結果を
出すことに関しては自信がある。

 当時の戦績は、途中から負けっぱなしだったのはもう気にならない。『あの頃』
は、心の支えというものがなかった。頼れるのは自分だけだし、信じていいのは
自分だけだったと思っていたから負けたのだ。

 今はシンジがいて、子供たちがいる。『あの頃』の敗因が、今はもうない。
上手く行かないわけがない。

「ほーら。タクト、ミライ。二人とも寝るよー」

 シンジが子供たちに呼びかける。このままだとアスカは寝るまで抱きつかれた
ままだ。それも悪くないが、絵本の読み聞かせで情操教育を! というシンジの
意気込みはなみなみならぬものがある。

 きっと将来は教育パパになるだろう。すでになっているかも知れないが。

 布団まで二人を連れて行く隙に、アスカは素早く着替える。

 シンジを挟んでタクトとミライが絵本を読んでもらうのに、ちゃっかりアスカ
も混ざっていた。

 その後は、名残惜しいが子供たちに、おやすみと手を振って、リビングに戻る。

 リビングは、まだ子供達の喧騒の残り香がある。それは空気中でポンポンと
はじけ、それで今日一日が子供たちにとって良い一日だった何よりの証拠だ。

 その余韻を楽しみながら、アスカが夕飯を食べていると、しばらくして子供部
屋のふすまが静かに開く気配がした。廊下を静かに歩く足音がアスカのいるリビ
ングに向かってくる。

 戻ってきた家族を見て、アスカは微笑んだ。

「あら、二人はもう寝たの?」

 相手は黙ってうなずいた。アスカはVサインをしてウインクする。

「じゃあ、今夜は二人っきりってわけね」

 ミライがこたえた。

「やさしくとんとんしてあげたら、パパもお兄ちゃんも寝た」

「ホント、ミライは凄いわね」

 自分の首に両手を回して抱きつくミライと会話しながら、アスカは夕飯の続き
を食べる。ミライが今日あったこと、シンジが言ったこと、タクトが笑ったこと、
などなど断片的に語ってくれる。

 それに相槌を打っていると、ふと娘の言葉が止まる。規則的な息遣いがアスカ
の首をくすぐる。

 どうやらミライの活動限界が来たようだ。立ったまま寝ている娘を、アスカは
静かに抱き上げる。

 布団に寝かしつけると、ミライの頬に、アスカは愛情を込めてしっかりと、し
かし起こさないように優しくキスをする。

「限界までママにつき合ってくれて、ありがと」

 その後、シンジの傍でシンジと同じ寝相のタクトも息子の布団に運ぶ。

 タクトの頭をなで、やはり頬にキスをする。起こさないように抱きしめる。

 さて、あとは自分が寝る準備をする番だ。

 子供を寝かしつけながら自分も寝てしまったシンジのベッドに、アスカは右腕
と右足を、静かに滑り込ませる。体を地面と水平にしてマットを揺らさないよう
に忍び込む。

 そっと入ってシンジを驚かせたいからだ。アスカはイタズラ心から、夫の足に
自分の足を絡ませた。

 冬場のシンジの足は暖かい。だが押し付けられたシンジは妻の足の冷たさに、
「ひゃっ」と声を出す。

 それがおかしくって、アスカは小さく笑う。イタズラ成功だ。

「あれ。ごめん、寝てた」怒りもせず、シンジは謝る。半分寝ぼけているのだろ
うか。

 まだ絡みついているアスカの足を、シンジは自分の足で挟みこんだ。

「ひえひえじゃないか」

「冬だから、しょうがないもーん」夜なので声は潜めている。

「これじゃ寒くて寝られないんじゃないの?」

 冬山で遭難したとき、人を暖めるのには人肌が一番良いとはよく言うが、彼女
の足を暖めるのはシンジの足が一番良い。

「ほんとにもう」と何に怒っているのかわからないが、シンジはアスカに体温を
分け与えるようにして寝てしまう。

 アスカはシンジの足が好きだ。暖かいので好きだ。


   ■■■ ■■■ ■■■


 十二月三日。

 次の日は碇アスカの誕生日なので、アスカイブとでも呼べば良い日である。

 全国的には晴れ、夜は気温が下がるという天気予報。
 
 十四歳だった『あの頃』、惣流・アスカ・ラングレーは世界的に有名になりた
いと思っていた。

 『あの頃』のアタシは、バカだったわねー。と人ごとのように考える。

 恥ずかしさのようなものはない。その時は本当にそう思っていたのだし。

 今は、ネルフの研究職についている。

 世界的に有名にはなっていないが、誕生日前日、自宅に同僚や上司が来てくれ
るくらいに人間関係は良好である。

 ミサトが陽気にビールを飲んでいる。彼女は飲める場があれば確実にくる。た
だ飲むだけでなく、人との会話を楽しみたいようで、今も陽気に絡み酒だ。

 絡まれているカヲルはそれを華麗に受け流す。その隣のレイはミライと折り紙
で何か作っているが、アスカは折り紙に詳しくないのと、ミライもレイもぶきっ
ちょなので何ができるのか完成するまでわからないだろう。完成してもわからな
い可能性はある。

 碇ゲンドウは乾杯し、コップ一杯のビールを飲んだ直後、ミライに抱きつかれ
た。

「おじいちゃん。ギュッ!」と舌足らずな声で言われ、酒の回りが早くなったよ
うだ。ボロボロと泣きながら、寝てしまった。

 ミライ、グッジョブ! と心でアスカは娘に向かって親指を立てた。いくら夫
の父といえど、組織のトップがいる場では盛り上がりづらい。

 リツコに日向マコト、ヒカリとトウジも来ている。

 彼らは直接の知り合いではないが、アスカとシンジの誕生日パーティに来るた
びに顔を合わせるうちに顔見知りくらいにはなったようだ。

 その人数に料理をふるまうために、シンジが獅子奮迅の働きぶりだ。

 鶏の唐揚げは全部チューリップの形になっている。チューリップは骨から鶏肉
を片側だけ外し、ひっくり返して作るのだが、手間がかかったに違いない。

 アスカは唐揚げを口に運んだ。ニンニク醤油に漬け込んだ鶏肉の旨味と、柔ら
かさ、外側の衣はパリッとした食感で、これがまた上手い具合に肉と絡みあう。

「おいしい!」とアスカが言うと、嬉しそうに鼻を動かしながら、シンジがキッ チンに戻っていく。

 揚げたては熱くて小さい子供は食べられないので、タクトとミライの分は小皿
に取り分けてやる。冷めたのを確認してから、アスカは子供らの口にそれを運ぶ。

 するとそのタイミングを見計らったかのように、次の料理が運ばれてくる。こ
の絶妙な間の取り方は、MAGIの監視システムでも導入してるのではないかと
思うほどだ。

 それを食べて、アスカが「美味しい」と言い、満足げにシンジがキッチンに戻
ることが数回、繰りかえされる。

「シンジ。もういいから座りなさいよ」

 見かねてアスカがシンジを呼ぶ。黙っていると彼女の夫は最後まで座らないか
らだ。本人はそれで納得しているかもしれないが、流石にやりすぎだ。かといっ
てあまり早い段階で座らせると不完全燃焼になる。この辺の見極めが難しい。

「今年も出たわね〜。アスカの『座りなさいよ』が」

 酔っぱらいのミサトがまぜっかえすと、皆がどっと笑う。照れたように頭をか
きながらアスカの隣に座るシンジ、というのが毎年の十二月三日、もしくは四日
のスタイル。

 今年は、さらに一つ趣向が加わった。 

「ままー」ぴこぴこと足音をさせて、ミライが呼ぶ声がする。

 ちょっと目を離した隙にいなくなったと思ったら、子供部屋に行っていたのね。
とアスカは思った。探しに行こうと思ってたけど、これで一安心だわ。 

「はーい。なあにー」

 アスカが返事をすれば、ふふふ、とミライの喜ぶ声がする。

 タクトもミライも、親のアスカが思うのも変かもしれないが、本当に育ちがい
いというか、笑い方が優しい。

「ぷれぜんとよー!」

 リビングに現れたミライの右手は、廊下の角に隠れていて、アスカのいる位置
からは、まだ見えない。左手は開いているので、やはり右手に何か持っているの
だろう。

 シンジが驚いている。

「あれ? ミライは自分で何か用意したの? パパは何にも知らないんだけど、
タクトは知ってる?」

「ボクも知らないよー」

 ニコニコとタクトが答えるので、大人たちは一様に驚く。

「そうなんだ」すでにシンジは感極まって泣いている。「ミライはもう一人でプ
レゼントができるようになったんだね」

 あによ、まだ早いわよ。とシンジの耳たぶに囁きながら、アスカは夫の肩を
優しく抱く。

 大人たちの感激をよそに、ミライは元気よく右手をアスカに差し出した。

「はい!」

 小さな手にはタコ糸のような紐が握られていた。その紐は曲線を描いて宙に上
り、その先端は浮遊する球体が縛り付けられている。

 その球体は風船に見えた。その丸い形、大きさ、空中に浮いているという状態。
それらのことから考えられるのは、まさしく風船だ。

 しかし、その場の大人たちには、それに見覚えがある。

 白と黒の縞と眼の様な模様を持つ球体。

 ブゥウウン、と球体は振動するような音を発した。

「ま、まさか、使徒? レリエルなの!?」ミサトが驚いたような声を出す。

 サイズが小さく風船大とはいえ、十数年前に第三新東京市で戦った第十二使徒
が、碇家のリビングに出現するとは。

 よくできたオモチャ? とミサトを含めた誰もが考えた。シンジとアスカを除
いては。

 リアルに至近距離で対峙したからこそ、それが何か別のものである可能性を
二人は排除した。理由はわからないが、使徒だ。何が目的で、どうやって復活し
たかはわからないが。

 ヤバいわね。と、アスカは心の中で呟いて、それで精神の平静に戻すことに成
功した。

 突如現れた使徒に対しての驚愕と恐れを、アスカの中の母である部分が押し返
している。

「あら。ミライったら、いいものママにくれるわねー」

 努めて明るい口調で言う。それで大人たちもハッとする。大人だけれど、自分
のことで精一杯だった『あの頃』とは、彼らも違っている。

 リツコは冷静に携帯端末のカメラでレリエルを撮影し、有線でネルフのネット
ワークに情報を送る。「すぐにパターン調べて」

 アスカは大げさに喜んで見せる。大きく手を広げて。にっこりと笑顔を作った。

「ミライ。ありがとう。ママとっても嬉しいわ。ちょっとそのプレゼントを置い
て、ママの方に来てくれる?」

 つられてミライもふふふ、と笑う。母親に駆け寄ろうと動いた瞬間、白黒の縞
模様を持つ球体が、手品師が掌のコインをさっと消すような、そんな速さで突然
消える。

 ミライは足からどこかへ落下し始める。

 反射的にアスカは体全体のバネを使い、ヘッドスライディングでミライをキャ
ッチすることに成功した。

 ミライが今いた位置の床が黒く円を描き、黒い底なし沼のようにぽっかりと穴
を開けている。

 アスカの足がそこに膝まで沈み込む。

「アスカ!」

 シンジの声がする。見なくてもどんな表情をしているかわかる。それでもチラ
リと彼の顔を見てしまう。想像通り、心配なのと必死なのが混ざった凛々しい顔
だ。彼女が好きな顔だ。

「シンジ!」

 ミライを頼むわよ。と思いつつ、キャッチした娘をシンジにリリースする。

 他の言葉は時間の無駄でしかない。夫の名前に彼女の想いのすべてが詰まって
いる。

 心配しないで。きっと帰って来るわよ。その間、ミライとタクトのこと、よろ
しくね。 でも助けてくれるなら、それはそれで嬉しいけど。まずは一人でや
ってみるわ。うん。昔みたいに借りだとか貸しだとか面倒なこと思ってるわ
けじゃないわ。それとアンタは動かなくて正解。アタシとアンタが二人してレ
リエルに飲み込まれたら、誰が子供たちの世話するの? ミサトに任せて
ガサツな子になったら困るし。まあ、なんとかやってみるから。
じゃ、あとよろしく。

 という想いが、『シンジ』と呼んだ声にすべて詰まっている。


    ■■■ ■■■ ■■■


 アスカは何も無い空間に落ちていた。

 さーて。どうしたもんかしらねー

 どちらが上か下かもわからない。

 落ちる感覚は一瞬よりも少し長いくらいの時間だったように思う。遊園地のプ
ールなどにあるすべり台をすべり落ちるような感覚だった。

 その後、ざぶんとどこかに飛び込んだ。今いるところは水中ではない。アスカ
がいるのは、どこかの広い空間だ。

 どちらが上か下かもわからないので、自分の頭が上で、足が下だということに
しようとアスカは決めた。

 ほのかに明るい空間で、足場が無いので浮いていると思われるのだが、足の先、
下の方はどこまで続いているのか見当もつかない。上を見上げると、白い輝きが
あり、それはプールの中から見る太陽のように揺らめいているのだった。 

「息が苦しいってこともないし、暑くもなければ寒くもないから、しばらくは
いられそうよね」

 誰に言うともなく、アスカはつぶやいた。

 帰る方法はまだ見当もつかない。帰りたいという気持ちに矛盾するかもしれな
いが、アスカは嬉しかった。

 第十二使徒レリエルは、影だと思われた部分が実は本体だったわけだが、その
本体に飲み込まれたシンジに、その時の話は後で多少は聞いている。

 シンジは、相手がアスカといえど、辛いときの話を自分からするタイプではな
いから、無理やり聞き出した話になる。後は彼女の想像で補うことになるが、そ
の時の恐怖といったら、相当なものだったはずだ。

 誰もいないところで一人死ぬかもしれない状態は、精神的にキツかっただろう。
その死に方が、酸素の供給停止による窒息なら、なおさらだ。

 手も足も出ない。狭いエントリープラグに閉じ込められ、何もできず、時間だ
けが刻一刻と過ぎてゆく。それは徐々に死に近づくという恐怖だ。

 それは十四歳が体験する必要のないものだ、とアスカは思う。

 後になってシンジが感じた恐怖を彼女が受け止め、分かち合うことはできたと
思うが、それだけでいいのかと彼女の中で消化不足の感は否めなかった。

 あの時、シンジが体験した状況を自分も体験できるというのは物凄く幸運なこ
とにアスカは思えた。

 彼女は現状をポジティブにとらえた。この先、どうなるかわからない事も含め
て。

 泣かない自分と泣く自分、どちらも受け入れてくれたシンジに出会えたから、
アタシの人生は、十分満足してるのよね。

 子供も二人生まれてさ。さっきのミライをキャッチ&スローしたのは、我なが
ら母親としては満点だわ。 

 だから、はいここまで、と唐突に言われても、アタシはしぶしぶとはいえ納得
できるけどさ。でも家族を悲しませるのは良くないのよ。人はできるだけ年をと
ってから死ぬべきなのよ。

 サドンデスなんかで、ゲームセットになってたまるかっての。

 アスカは握った拳に力を入れた。


    ■■■ ■■■ ■■■


 気づけば、アスカは電車に揺られている。

 向かい合うような長いシートは七人掛けだろうか。

 彼女はそのちょうど真ん中に座っている。不思議なことに電車は走っているの
にガタゴトという音がしない。振動はあるのだが、静かなものだ。

 窓の外から斜めに差し込む橙色の光は、夕暮れの光だ。それは夜の暗闇よりも
静けさを強調する。

 気づけば、アスカの正面の七人掛けシートに男の子が座っている。幼児といっ
ていい年だ。四歳か五歳くらいだろうか。

 アスカはわかっている。目の前の男の子は、四歳だ。自分達のターニングポイ
ントになったはずの年齢が四歳だったから。

 タクト? と一瞬思う。彼女の息子に顔立ちがよく似ている。黒い髪で、優し
げな瞳で、鼻は高くないが整っている。ただタクトと表情が違う。

 目の前の幼児は、口をきゅうっと引き結んでいる。おっとり屋のタクトがしな
い顔つきだ。

 この子、シンジよね。

 男同士だからか、父のシンジと息子のタクトはとてもよく似ている。

 タクトの人格をアスカは母として最大限に肯定しているつもりだが、小さいシ
ンジのようだという印象はぬぐいきれない。

 シンジから彼の幼少時の話は聞いている。それを思い出すだけで、アスカは彼
の父母や先生と呼ばれる人に対して怒りを覚えるし、やるせないし、悲しくなっ
てくる。

 当の本人は笑って話せるのだが、アスカの方はモヤモヤする。それをシンジに
話すと、たぶん僕の分もアスカが怒ってくれてるんだよね、というので、まあそ
んなもんかと考えている。

 子供の時に与えられなかった分の愛情を、今の自分があげられたらいいのに、
とアスカは思う。シンジに与えられていると良いのだが、どうしてもまだシンジ
の方が遠慮しているのではないかと勘ぐってしまう。

 タクトにはそうした寂しさを感じさせないように、抱きしめたり、手をつない
だり、絵本を読んだりするようにしているけれど。
 
 それはミライにも同じだけ与えている筈だ。

 受け取ってくれるなら、それはシンジにも。

 だから目の前のシンジにもアスカは与えたい。

 彼女は、そっと呼びかける。

「シンジ?」

 男の子は、一回だけアスカを見て、すぐに顔を反らした。

 小さいシンジは背筋をぴんと伸ばしている。手はそれぞれ体の両側で上半身を
支えるようなポーズでシートの上だ。人差し指から小指までの五本を揃えて置い
ている。

 半ズボンから出た足をぷらぷらと揺らす男の子は、まぎれもなく四歳のシンジ。

 そうとわかった瞬間のアスカの動きは早かった。水面の魚を狙う鳥の速さで、
低く跳ぶ。

 向かいのシートに音も立てずに着席した。

「あなたはシンジ、シンジくんよね?」

 男の子は相変わらず明後日の方を向いている。幼児特有のふっくらした頬の緩
やかな曲線が、タクトと同じであるのは遺伝子の丁寧な仕事っぷりだ。それに彼女
は感心してしまう。

 アスカは静かに返事を待った。

 電車は静寂を包み込んだまま走っている。

 彼女はシンジと確信している男の子の、こちらに向けられた後頭部を見つめてい
た。面白いもので、ちっとも飽きが来ない。この頭だけをずっと見ていられそうだ。

 胸の内側でぷちぷちとあぶくが弾けるような感覚がある。

 この子を抱きしめたら、どんな気がするだろう。嬉しいに決まっているし、そ
のことにも確信はあるが、結果がわかっているからと言って実行しない、という
のは彼女の選択肢にない。

 どっちにしろ、困るときは困るんだからさ。やってから困ればいいのよ。

 というのが彼女の持論で、そのせいでシンジとケンカになったりする。決定的
なケンカではないので問題ないだろう。

 それで、彼女は男の子の後頭部に声をかけた。

「シンジくん。だっこしようか?」

「いいの?」

 優しい性格をした男の子特有の可愛い声に、おずおずと聞かれて、アスカの心
の中の獣が住処とする洞窟を飛び出した。脇目もふらずに山を駆け登る。風より
早く斜面を登る。邪魔するものはすべて体当たりですっ飛ばした。そして、たどり
着いた山頂で月に向かって獣は吠えた。「かわいい!」と。

「だっこしたいから、させてちょうだいよ」

 もうガブガブいきたい気持ちを必死で押さえつける。こういうことは、ギリギ
リの線上の真上まで我慢してからの方が美味なのだ。 

 しかし、顔を背けたまま、両手だけ突き出してくるシンジを見たアスカは、一
瞬で意識が飛ぶ。気づいたときにはシンジを抱きかかえている。

 うわあうわあうわあ、と彼女の思考はまるで上昇気流に巻き込まれたかのよう
に高揚する。そうした場合によくあるように、言葉にならない思考になってしまう。
嬉しいという意識はあるけれど。

 でも、タクトと同じくらいの背格好なのに、息子より体重が軽いのが気になった。 

 これはご飯を食べさせないといけない。母親というものは、子供にご飯を食べ
させたがる成分でできている。

「食堂車ないのかしら、この電車って」

 シンジを抱えたまま、アスカはきょろきょろと車両の両端を交互に見るが、前方
の車両も後方の車両も薄暗くて車内の様子がよく見えない。

 それに通常の電車に食堂車はない。

「むー。残念ね」

 あてどなく食堂車を探し回るよりも、今の時間を満喫する方が大事だ。

 彼が過去のシンジなのか、潜在意識の中のシンジなのか。

 レリエルに飲み込まれた時の話を、シンジから聞くかぎりでは、その時に電車
で出会った幼少のシンジは、自分自身ではなかったように思えたという。

 彼女は、このシンジは潜在意識のシンジだと思う。誰のというとシンジの潜在
意識だ。
 
 一人の人間に一人の人格しかないというのは間違いで、誰しも自分の中に複数
の自分がいる。それは若い自分だったり、年老いた自分だったり、男でもおばち
ゃんの自分がいるし、女でも男前の自分がいるものだ。

 それに加えて、彼に重さがあるという現実。重みというのは存在することを実感
するためにとても重要なファクターだ。

 シンジが嫌がらないのを良いことに、頭の匂いもこっそりと嗅ぐ。シャンプーの
良い匂いがするので、子供の頃、完全に放置されていたわけではないようで、
少しだけ安心する。

 体温の高さ。暖かくも寒くもない車内でほんのりと感じられる体温。

 そのすべてがシンジであると彼女に確信するに足る条件である。

 これだけ揃ってシンジじゃないということがあれば、それはもうアスカの預か
り知らぬ話である。

 愛とは惜しみなく与えるものだ。だから、アスカはそうした。

 彼のことをどれだけ好きか言葉にする。
 
 どれだけ彼が素晴らしいかも言葉にする。

 足りないかもしれない部分は、抱きしめることで埋める。

 素晴らしい。 

 アスカは気にしていたのだ。シンジが四歳の時に親から離され、一人で他人と
同居させられたという事実を思い出すたびに、彼女の胸は潰れそうになる。

 自分も四歳から一人で生きると決めていたから、その厳しさはよくわかる。

 今ならば、今の状況があるからこそ、当時の話もできるけれど、あの時はきっ
と大変だったに違いない。途方もなく高い山を一人で登るような気持ちだった筈
だ。

 登らざるを得ないが、登れば登るほど空気は薄くなるし、寒くもなる。それで
も山を登り続けなければならないなんて、四歳の子供にさせることではない。

 だから、彼女はシンジを抱きしめる。アンタを守ってくれる人に必ず出会える
からね、と言う代わりに行動で示した。

 しかし、自分よりシンジの体温が高いのはどうにかならないか。これでは自分
が暖まっているようだ。
 
 アタシ、体の表面温度が低いもんねー、とアスカはそれが残念だ。

 体温上げるために、帰ったらショウガでもかじろうかしら。

 などと思っていると、車内の蛍光灯がチカチカと点滅して、一瞬、暗くなる。


後編に続く)