シンプルライフ 第七話
『我が家が一番』 後編
「はっ」アスカは鋭く呼吸した。
まるで自分で気づかないうちに寝てしまったかのような感覚だけがある。
さっきまで乗っていた電車はどこにもない。
彼女は道の真ん中に立っていた。それは白い道で、緩やかに曲がりくねっている。
巨大な蛇がのたくった跡のようだ。
空は青いが、雲ひとつ無いので、どのくらいの高さかわからない。
前方には山が見えた。測量に詳しくないアスカには、標高まではわからない。
「まだレリエルの中ってことよね」
ひとりごとを言っても、返事はない。
何気なく隣を見ると、シンジがいる。四歳の姿のシンジが。
彼は困ったような顔でたたずんでいる。悲しいわけでもなく、どこか痛いわけ
でもないが、さりとて楽しいわけでもない。
そんな顔だった。
アスカがにっこり笑って見せると、彼女を見上げるシンジは安心したように、
『うふふ』と笑った。それを見てアスカは少し胸が痛んだ。周囲に信頼できる
大人がいなかったのだろうかと。
「手、つなごっか?」
差し出した右手を、おずおずと小さな左手が握り返す。その手は暖かかった。
なんでこの手を、シンジのパパとママは離してしまったのかしら、とアスカは残
念に思った。こんなに暖かい手なのに。
一度でもちゃんと握っていたら、自分なら離すなんて考えられないのに。
不思議と怒りはわいてこない。ただ、この手から離れるなんて可愛そうにとい
う、憐れみの感情が、彼女の内面に浮かび上がってきたので、それには少し驚い
た。
シンジが上機嫌で、歌を歌っている。即興の歌だろうか歌詞はなく、
「るんるるん、るんるるん」とスキップしながら歌っている。
怒るよりも、彼と並んで歩くことが楽しい、というのが先に来ている。だから、
マイナスの感情が出てこないのだろう。
今ここに無いものに怒ってもしょうがないもんね、とアスカは納得した。研究職
についているからか、つい分析してしまうのは悪い癖だが職業病だし、仕方ない。
理系の人間にだって感情はあるし、むしろ理系の人間こそ自分の感情を把握
できていないと困ることだってあるのだ。
手をつないだシンジに引っ張られながら、アスカは辺りを見回すが、正面の山
以外は白い道と、遠く彼方に地平線があるだけだ。
シンジがどこに向かうつもりなのかアスカにはわからない。たぶん四歳の彼も
わかっていない。ただ状況的に、二人で歩いてどこかを目指せばいいのだろう、
ということはわかった。
「誰かいるよ!」シンジが言った。
見ると、少し先に女の子が立っている。遮るものが何もないこの世界で、女の
子が立っていたらもっと早くに気づきそうなものだが、彼女の出現は唐突だった。
先ほど見た山のふもとは、登るルートが二つに分かれている。一つは曲がりく
ねっていて、明らかに時間がかかりそうだ。
その道の前に、少女はいた。
まるで、シンジが十四歳で第三新東京市に来たときに見たという、綾波レイの
幻みたいだと、アスカは思う。
その話を大人になってから聞かされて、なにか不公平なものを感じた。
そうしたアスカの感情には気づかず、大人のシンジは、
『でさ、もう一回見たらその子はいなくなってたんだよ。ネルフにいったらそっ
くりな子がいて。ケガまでしててね。うわあ、大変だ、これは僕が頑張らないと
って思ったんだよねー』
などと、のほほんとした顔で言うのだ。
それって、あの子に完全に印象づけられてんじゃないのよ!
と、その話を聞いた時のアスカは憤慨した。なんてズルい手を使うのだ。でき
れば自分がそれをやりたかった。神様がいるならやり直しを要求するレベルだ。
まあ、ケガをしたのはレイのせいではないから、そこは同情するけれど。
この湧き上がる感情をどうするべきか、彼を噛むべきである。そう判断した
アスカは、シンジの肩をガブガブ噛んだ。本気で噛むと痛いので、本気では噛
まないように気をつける。
懲罰的な意味合いはそこにない。自分が不満を持っていることを知ってほしい
から、歯を立てないように噛んでいる。
まだ子供で精神が未熟だった頃、たしかにアスカはシンジをひっぱたいたりし
たけれど、あれは今思えば間違いだった。寂しい時に寂しいって言うだけで良か
ったのだと思う。変な意地を張る必要は全然無かった。
そして今、アスカは女の子を見て、驚きはしたが、すぐ納得した。目の前の少
女は、四歳の自分だ。
不機嫌そうに頬を膨らませ、赤い靴を履いた足で、地面を蹴っている。
「遅いのよ」
と言われて、待ってたの!? と、そっちに驚くアスカだったが、「ごめんね、
お待たせ」と言うだけの精神的成長はしている。
昔は、謝るのも謝られるのも嫌いだったのに。
四歳のアスカは、ててて、と小走りにシンジに駆け寄り、彼の空いている右手と
手をつなぐ。
「ほら。行くわよ。ついてらっしゃい」
「うん!」なんて、跳ねる音符が見えそうな返事をシンジはする。
「どこに行くか、知ってるの? それとも、決まってるの?」
アスカは四歳のアスカに聞いた。ふん、と小さいアスカは鼻を鳴らす。
生意気ねー、と思うアスカは、それが自分だと忘れている。
「そりゃあ、ゴールよゴール。どこにあるかは知らないわ。だけどそれは必ずあ
る筈だから、向かってれば必ず辿りつけるものなのよ。向かってる限りはね。
あとは近いか遠いかだけだけど、絶対に行くって決めてるから、そこはあまり
問題じゃないわ」
「どうしてゴールに行きたいの?」
つい聞いてしまったアスカを、小さいアスカは、かわいそうな人を見る目つき
で見た。わらの家に閉じこもって安心している子豚を見る狼のような目だった。
「幸せになりたいからよ」
「幸せになりたいから」アスカは繰り返した。なぜだか感心してしまった。
「そう。誰かに必要とされる人にアタシたちはなりたいの。それってアタシたち
に価値があるって証明になるじゃない。必要とされるのは多い方がいいわね。
多ければ多いほど、いいのよ」
「それって一人じゃダメなの? 一人の人が認めてくれるのじゃ」
アスカはシンジを思い浮かべながら言った。その後、タクトとミライの顔が浮
かんだ。
「それとも三人とかじゃ?」
「ダメなんじゃない?」少し考えてから小さいアスカは答えた。「もっともっと
沢山の人にね、必要とされたいの。アンタもそう思うでしょ?」
「ねー」
聞かれた小さいシンジは、同感と言うように、四歳のアスカに首を傾けて見せ
た。
たぶん、彼はわかって返事しているわけではない、と大人のアスカは直感的に
感じ取る。
ホントに、雰囲気に流されやすいんだから。意識してやってないから、なおさら
性質が悪い。これで優しくされて勘違いした女がどれだけいたことか。
もちろんアタシの場合は勘違いじゃなかった。もしも勘違いだったとしても、
ここまで突き詰めれば、それはもう勘違いじゃない。事実だ。だからアタシは良
い。
小さいアスカとシンジは、言葉の上でしか、幸せだとか、価値という意味をわ
かっていないのだ。
それだけに、大人のアスカが言葉で説明してもわからないだろう。実際に体験
してみないとわからないことなのだ。いくら頭が良くても、やってみないとわから
ないことはある。
「ということで、こっちの道、行くわよ。ついてらっしゃい」
小さいアスカは曲がりくねった道を、すたすたと歩き出した。
「そうだね。でもー」
シンジが大人のアスカをちらちらと、気にして見る。
「いいわよ。二人で行ってらっしゃい」
「じゃあ、これあげる」
そう言って、小さいシンジから手渡されたのは。小さな紙片だ。
「切符?」
どこ行きとも印字されていないが、電車に乗るときに使う切符だった。
「アタシがもらっちゃってもいいの?」
「ボクは一人だったら電車に乗って行くつもりだったけど、もう要らなくなった
からね。お姉ちゃんにあげる」
「あの子と行くのね?」
「そう!」
快活に答えて笑う小さなシンジは、さっきまでの、うふふ、という笑い方では
なくなっている。にっこりとした笑顔だった。
小さな男の子ではなく、少年の笑い方だ。
子供の成長って早いのよね、とアスカは感慨深い。
まだ丸みの残る頬にキスしたいところだが、小さいシンジの頬は、もう彼女の
ものではない。それはあちらで、早く来なさいよと怒っている小さなアスカのも
のだ。たぶん。
「じゃあね。バイバーイ」
手を振られたので振り返す。二人の楽しげな空気だけが、辺りに残っている。
小さいアスカたちが行く道は、どうなっているのか大人のアスカにはわからな
い。たぶん大変な道だ。それでも、シンジがいるから大丈夫だろうと思える。根
拠はシンジだ。それで十分だ。
アタシより、十年も早くシンジに出会えるなんて、アンタは本当に幸せものよ、
とアスカは少し、小さいアスカが羨ましい。
だけど代わりたいとは思わないのよね。負け惜しみでもなんでもく。とアスカ
は思った。
次もう一回人生があるよって言われたら、もう一回この人生がいいもの。何が
影響するかわからないから、今までのことは全部そのまま繰り返さなきゃ。細心
の注意を払って、同じわだちを丁寧に歩かなきゃね。シンジとタクトとミライと
一緒に生きるためにね。
帰ったらシンジもアタシと同じ気持ちか聞こう。間髪入れずにイエスと答えた
ら、それは何も考えていない証拠だから、やり直しさせる。
悩むようなら、何が不満かドイツ式尋問でキリキリ白状させる。シンジの丁度
いい呼吸はわかっているから、それになるまで問い詰めよう。
アスカはそんなことを考えながら、むーんと伸びをした。気分一新。
さあ、アタシはアタシの道を行かなきゃね。我が家に続く道をさ。
アスカはもう一つの道を歩き続けた。
帰ったら、シンジのケーキが待っいてるはずだ。彼女の誕生日のために彼が作
ったと思うだけで、甘さが格段に違うケーキが。
山を登りきったところで、無人の駅に着いた。
改札口はあるが駅員がいない。自動改札機は、ゲートを閉じたままで、無口な
番人のように見えた。
切符を買おうにも白い壁があるばかり。改札口の脇にある駅員室らしきところ
を覗いたが、人の気配がない。
「ここで使うのよね」
自動改札機に、先ほど小さいシンジから貰った切符を入れると、ゲートが静か
に開いた。
そのまま片側しかないホームに移動した。止まっている橙色の電車に乗リ込む
と、七人掛けのシートの真ん中にアスカは座る。
彼女が乗車するのを待っていたかのように、ドアが閉まり、電車は静かに動き
出した。
■■■ ■■■ ■■■
アスカを乗せ、電車は走っている。
車窓から見える空は、先ほど見た夕暮れどきの橙色から青へと変わっていた。
外が明るい分、車内は暗い。床に落ちた影にアスカは目を落とした。それは短く
濃くなっている。
顔を上げたアスカの真正面に彼女の母、惣流・キョウコ・ツェッペリンが座っ
ていた。彼女の記憶に残っている、彼女が四歳だった頃の母そのものの姿で。
とうとう来たわね、と彼女は居住まい正した。
二号機の中の取り込まれた母親とは、十四歳の時に話をしている。一応和解
のようなものもなされていた。でも、あれは魂との対話だったわけで。
肉体と魂をともなった母親に実際に会えたとしたら、嬉しいのか悲しいのか、
怒りだすか、懐かしく感じるのか。
どうなるかアスカには想像もつかなかった。今も、どれが今の気持ちに当ては
まるかが、彼女自身にもつかめていない。
なんだか自分でも把握できていない。ただ、勝手に顔が緩んでしまうのが止め
られない。彼女の今の感情には、まだ名前がつけられていないのだ。
母は昔の姿だが、大人になった自分のことをわからないのではないか。そう思
って、アスカは言った。
「ママ。アタシ、アスカよ」
母は穏やかに微笑んだ。春の陽だまりのような暖かさだった。
「久しぶりね。アスカちゃん」
「そうね」とアスカは返した。
「きれいな髪の色は子供のころのままね」
アスカは母の声を聞いて嬉しくなった。彼女が聞きたかった声と、聞きたかっ
た言葉だ。
自分のことがわかってもらえて嬉しかった。ああ、やっぱりママだと納得する。
子供の頃、髪の色をよく褒められたものだ。
「アタシ。結婚したのよ。もう子供もいるの。二人も」
「男の子? 女の子?」
「上が男でタクトっていうの。下の子はミライって名前。タクトはね、ちっちゃい
シンジよ。あ、シンジっていうのはアタシのダンナだけど。それでミライはシンジ
が言うには、ミニサイズのアタシなんだって」
子供の話をしているだけで、クスクスと笑いがこみあげてくる。
エヴァンゲリオン二号機の実験で母の魂は大半が、弐号機に取り込まれたこ
とをアスカは知っている。
それでは今こうして会話している彼女は母ではないのか。
この母が偽物かというと、それは違うとアスカは思う。
自分の記憶の中の母かもしれない。レリエルの見せる過去の母親かもしれ
ない。はたまた、残留思念。もしくは全然別の存在という可能性だってある。
それでもこうして向き合って、話しているという事実。それが一番大事なのだ
とアスカはわかっている。
それにしても不思議なもんだわ、とアスカは思った。ママにもし会えたら、文
句の一つも言ってやろうと思っていたのに、こうして見ると何も言えなくなるも
んなのね。
どうして自分を置いていってしまったのかと、子供の頃は、いつも心の中で責
めていたのに。
いつの頃からかしらね、許せるようになったのは。
ま、それもこれもシンジのおかげなんだろうけど。
ちゃんとした交際がはじまる前から、アスカとシンジはよく二人で話をしたも
のだ。
週末の夜、何とはなしに、時間を決めたわけでもないのに、二人がリビングに
揃うときがある。
そんな時は、シンジがコーヒーを淹れたり、アスカが買い置きしていたジュー
スを二人で分けあって飲んだりした。
最初は、二人の間を沈黙が支配する。
話はどちらからする、と決まったものではなくて。
気候が戻った日本の、春先に降る雨のように、ぽつぽつとどちらかが話を始め
る。
相手に聞いてもらっているような、自分で過去の出来事を再確認するような、
そんな話し方で。
それぞれの母との別れの話。
日本で、またはドイツでの新しい環境の話。
四歳で、または十四歳でエヴァパイロットになるまでの話。
話すたび、離れて立つ二人に雨がぽつぽつと降り、その雨が足元の地面に吸い
込まれて広がるような感覚だった。
お互いの足元でにじむ雨が、だんだん伸びて、いつしかお互いのそれが繋がる
ことで、同じ大地に立っているのだとわかる。そんなイメージが、二人の内面に
は確かにあった。
それは言葉にしなくても、わかった。
飛び級して大学に入った話をアスカがすると、シンジが「すごいね」と嬉しそ
うにしたので、アスカも嬉しくなった。
シンジがネルフに来た初日にエヴァに乗せられた話をすると、アスカが『何そ
れ! 説明もせずに普通乗せる? 信じらんない!』と憤慨した。シンジは困っ
たよう顔をして、まあまあとなだめた。
一人でいたとき、背中に感じていた孤独というもののことも話した。
二人が戦友になってから、孤独が時に薄まることもあれば、別の時には夏の
影のように、より濃さを増したりしたことも話した。
お互いが似た境遇だったからこそ、理解は早かった。
同じ団地に住む子供同士が、相手の家に遊びに行った時、間取りが同じなの
で、目を閉じていても洗面台に辿りつけるようなものだった。
状況を聞けば、相手の感じたことに、自分も辿り着けた。
寂しいといわなくても、その時の空虚な感覚はすぐに通じたし、嬉しいといわ
なくても、相手の顔を見れば同じことを感じてくれているとわかった。
ある程度のことは詳細に語らなくても理解できた。自分も同じ経験があるから
だ。
ただ、好き、という感情だけは、二人とも、自分の中にあることを認めるまで
に時間がかかったし、相手が自分をどう思っているかがわかるまでは、さらに
時間を必要としたが。
シンジと話すことで、アスカは楽になれた気がする。同じように感じてくれる
相手がいるのは良いものだ。それは一人では叶えられなかったことだ。
シンジと同じことで笑ったり、怒ったりすることで、アスカはシンジのことが
理解できたし、彼女が彼のことを理解できたとシンジが理解することが、重要だ
った。
それがあったから、今こうして母と話ができているのだろう。
過去の嫌なことは許せたということだ。あの時に戻ってやり直すことはできな
いが、前に進めば新しい何かが待っているということが、今はわかっている。
それだけでも、自分は十分に報われているように彼女は思えた。
ただ一つ不満があるとすれば、母が今もいてくれたら、孫であるタクトとミラ
イを見せることができたのに。
母がアスカに「ごめんね」と言った時には、さすがに鼻がつんとしたが、泣い
てしまうようなことはなく。ただ一言。
「ありがとう」
と素直に言えた。
アスカがそう言った時、母は最初驚いたような顔をしたが、すぐに満足そうに
微笑んで何度も嬉しそうに頷いたので、それで正解だったのだろうとアスカは心
の中でうなずいた。
その後、どこかの駅らしきところで母は電車を降りていく。母と娘は「さよう
なら」と挨拶をして、ふたたび電車は走り出す。
アスカは流れる景色を黙って眺める。
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「もう後は出ないわよね」
と言ったアスカの耳に、ブゥウウンと飛行機が遠い空を飛んでいるときのよう
な音が、聞こえてくる。
見れば、レリエルが宙に浮いている。白黒の縞模様の球体が。その真下には、
丸く黒い影あった。
その影が本体なのはわかっているのだが、どうしても白黒の球体に話しかけて
しまう。
「アンタの目的が何か知らないけど、ありがと。おかげで会いたい人たちに会え
たわ」
宙に浮く球体は、ブゥウウンと微かに音を出した。どういたいしまして、とで
も言うように。
「アンタが現れたってのは、レイかカヲルの差し金かしらね」
球体の表面で、白黒の縞模様が上下した。それが、アスカにはレリエルが肩を
すくめたように見えなくもない。
黙秘権を行使されたようだが、元から喋れないだろうし、答えがどうしても必
要というわけではない。
「誕生日だからって、サプライズにしても、凄いサプライズだったわ。それで、
アンタが出てきたってことは、これでおしまいってわけよね」
ブゥウウン。
低い響きが返ってくる。
「この後はどうなるの? この電車に乗って終着駅に行くわけ?」
縞模様が、ずぞーっと動き、下向きの矢印に変化した。
便利ね。と思いつつ矢印が差す方向を見れば、そこにはレリエルの本体が、あ
いかわらず床に広がっている。
その黒い部分を見ていると、段々に黒色が薄くなっていき、灰色から白に変わ
り、最後には丸窓のように景色が映しだされた。
海だ。海岸沿いの建物から第三新東京市に近い海だとわかる。アスカが何度か
来たことのあるところだ。
その砂浜にシンジが座っているのが見えた。
ビーチパラソルの下、ビニールシートが敷かれている。そこで、あぐらをかい
て座るシンジがいる。彼の膝の上に寝そべるようにしてミライが寝ているのが見
えた。
シンジの視線の先にはタクトがいる。黙々と砂の城を作っているところだ。
「これって、アタシが好きなところで降りられるの? たとえばここで?」
ブゥウウン。
球体の表面の模様が、下に動いてまた上に戻る。頷いたようだ。
レリエルの中にレリエルの影があるのが不思議だが、使徒というのは何でもあ
りだ。無限集合から抽出した部分集合も、また無限集合であるわけで。
そういうことだと考えることにした。
聞いても答えるものはいないし、そこは今のアスカにしてみれば、重要な部分
ではない。
大事なのは、家族のところへ帰ること。
自分の誕生日中に。そして可能な限り迅速に。子供たちが寝てしまう前に。
即断即決が身上のアスカは迷うことなく、レリエルの内部へ飛び込む。
「とうっ!」
最初にレリエルの本体に落ちた時と同じく、一瞬の無重力を感じる。
その後すぐに下に引かれる感覚があって、アスカは軽やかな身のこなしで砂浜
に着地した。この辺りは、十四歳の少女だった頃から変わらない。
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夏は海水浴客で混むので、碇家はいつも少し時期をずらして海に行く。
子供たちはまだ海に入るには幼いので、それで海は満喫できる。
春の海は天気さえ良ければ暖かで、海に入らなければ、海面の銀色の輝きが
心地よい。潮風すら少し甘く感じるほどだ。
冬も悪くない。風が強いのさえ気をつければ、灰色の空と灰色の海で視覚的に
は肌寒いが、それがより波の音を強調する。波の音は耳にするりと入り込んでき
て、また楽しいのだ。
十二月に入ったばかりだが、タクトにはお気に入りの野球帽をかぶらせ、ミラ
イにはつば広の帽子をかぶらせる。服もモコモコと着させて防寒もばっちりだ。
碇家は、たまに海を見に来る。
海なんて、アスカにしてみれば使徒がやってくる場所、くらいの印象しかなか
った。
それでも、海に来るとシンジが沖のずっと先に目をやっているので、彼女も彼
が見ているものを知りたくて、同じ方に目をやる。
濃紺の海は穏やかに揺れている。空は、海との境目では白っぽく輝いているが
少しずつ上の方は青くなっていく。それはどの辺りまでが白で、どこからが青にな
るのか、アスカにははっきりとしない。
「昔は海って言うとさ、アタシは緊張感が走ったのよ。使徒が来るっていうと大抵
は海からだったじゃない? だからだと思うんだけど」
「ああ。そういえばそうだね」
「なあに。忘れちゃったの」
アスカは、シンジのとぼけた言い方がおかしくって笑ってしまう。
「今はほら、赤い色もすっかり青くなって。もう十年以上前のことなのよね。
シンジは海、好き?」
「好きだよ」
「落ち着くから?」
「それもあるけどね。アスカが来日したときってさ、海から来たよね。あと、
サードインパクトの後に目覚めた時も、アスカがいて、海だったよね。だから海
って言うと、良いイメージのが多いかな」
困ったような、はにかんだような、いつものシンジの笑顔だ。
何さらっと凄いこと言うのよ。とアスカは思った。瞬時に自分の顔が赤くなっ
ていくのがわかる。
まさかそんな話になるとは思っていなかったが、新しい海の見方を知ることが
できたし、シンジから良い言葉が聞けたので、アスカは海に来て大満足だ。
ただ一つ不満なのは、今のシンジの言葉で頬を染めている自分を、シンジが全
然気づいていないことだ。
自分からこの頬の赤さを見ろというわけにもいかず、今後の更なる教育が必要
だとアスカは考えたりする。
そんなことが前にあった海辺の砂浜に、アスカは着地する。
砂を踏みつけた時の、とさっ、という音にタクトが顔を上げた。
「あ! ママだー!」
作りかけの砂の城をそのままに、タクトが駆け寄る。その声で目覚めたらしく、
ミライの声も聞こえる。
「ままー!」
心が高鳴る幼い声だ。波の音があってもアスカには、はっきりと自分を呼ぶ声
が聞こえる。娘の方はお昼ねから起きたらしく、シンジに抱えられて、こちらに
向かっている。
待ちきれず、自分からアスカも駆け出して、タクトを小脇に抱える。
首にタクトが抱きついてくる。しがみつくような体勢の息子の頭にキスをして、
ただいまとアスカは言う。
ミライを抱えたシンジが歩いてくるのが見えた。
ミライは鈴が鳴るような声で、アスカを呼んでいる。こんころこんころと鈴が
転がるような声だ。かわいくって仕方ない。
「おかえり」
となんでもないようにシンジは言うが、安堵のため息をついたのをアスカは見
逃さない。当たり前だが、シンジに心配されていた。それが嬉しくてアスカは、
むっふっふ、と笑う代わりに呟いた。
「よくアタシがここに帰ってくるって、わかったじゃないの」
「なんとなく、アスカなら海かなって思ったんだよね」
「短絡的ー」
「なんだよ。実際に海で待ってて正解だったじゃないか」
「ママたちケンカしてる?」
心配そうにタクトがアスカを見上げるので、慌てて彼女は首を振る。
「してないわよー。ママとパパ仲良しだもん。ねー」
首を傾けて、シンジと顔を見合わせる。
「昨日は皆が来てパーティだったけど。今日は家族だけでお誕生日パーティやる
よ」とシンジが言う。
「風船、ままに
プレゼントよ」
と、ミライが言うので、アスカはリクエストをすることにした。
「そう。ありがとう。今度は普通の赤いのがいいかなー」
「ボクはお城作ったの」とタクトが言う。
「凄いじゃなーい」
アスカは息子の髪をくしゃくしゃとかき回す。えへへ、と嬉しそうに笑うのを
見て、彼女はシンジと顔を見合わせて、なんとなく笑ってしまう。
そうして四人は、波の音を背中に聞きながら、家路についた。
子供たちと手をつなぎ、アスカが言った。
「あー。やっぱ我が家が一番よね」
(了)