私には答えがわかっているが、
どうやって答えを出すかはまだわからない。
シンプルライフ 第四話「蝶々効果4」
@『アスカはケーキを作ることにする』
人である以上、赤ん坊にも悩みはある。
生まれたばかりの赤ん坊でも、言語化されない思考の上での悩みであるが、
赤ん坊特有の悩みを持つ。
そうした悩みはもう少し大きくなれば、忘れてしまうようなもので、小さ
な拳に握り締めていた悩みを手放すとき、赤ん坊は、子供という存在へと成
長するのだ。
十二月四日の午前十一時五分。
碇家のキッチンにはアスカが立っている。息子のタクトはキッチンに置か
れたベビーチェアの上で、静かに母の背中を見つめている。
アスカは鼻歌まじりにくるくると動き回り、キッチンテーブルの上に料理
道具と材料を並べていく。
彼女は、自分の誕生日ケーキを作ろうとしているところだ。
最初は買ってくることも考えたのだが、それは次善の策だろうと考え直し
た。
下手に中途半端なケーキを買ってくると、シンジが不平をもらすのが十分
想像できる。彼女の誕生日を祝うケーキは、自分が作ったものが良かったと。
中学からの親友であるヒカリにケーキ作りを相談しようかとも考えたが、
彼女だって忙しいだろうし、自分の誕生日ケーキを作るのを手伝ってくれ、
と頼むのは、なんとなく気恥ずかしさがある。
第一、これは彼女の意地の問題でもあるのだ。
それもこれも、シンジが悪いのよ! とアスカは半年ほど前のことを思い
出す。
今年の六月六日。その日は、全国的に碇シンジの誕生日だったわけで。
「今日はまっすぐ帰ってきてね」とシンジに言われたアスカだが、もちろん
夫の誕生日を忘れるわけがない。仕事をさっさと切り上げると、美味しいと
評判のケーキ屋に寄り道する。
シンジの誕生日を祝うケーキは、一週間前からその店で予約済みだ。
意気揚々とケーキの箱を抱え、シンジの喜ぶ顔を想像しながら、スキップ
したい気持ちを抑えて帰宅したアスカを迎えたのは、リビングにあるテーブ
ルの上の、立派なデコレーションケーキだった。
その周りには、ヒカリにトウジに綾波、カヲル。ミサトに加持、碇ゲンド
ウまでが揃い、全員がなぜか微妙な顔でテーブルを囲んでいた。
ベビーチェアに座ったタクトがアスカをみつけ、うふうふと笑った。
「なんで……」
夫の浮気現場を目撃した妻のような表情で、アスカはケーキを見た。とい
うか、見ているものが信じられない。
自分以外に、いったい誰がシンジの誕生日ケーキを用意したというのか。
招待客全員が、彼女と視線が合わないように目をそらす。
「アスカ。おかえり。早かったね」
タクトの笑い声でアスカの帰宅に気づいたシンジが、エプロン姿で出迎え
た。のほほんとした表情で、手をエプロンで拭いている。
「シンジ。なにこれ」
指さす先は当のデコレーションケーキで、招待客たちは、怒りをこらえる
女性の指先から逃れようと身を寄せ合い、縮こまる。
「今日は僕の誕生日だから、ケーキを作ってみたんだ」
誇らしげに碇シンジは言ったのだが、アスカにしてみれば、なんで自分の
誕生日に自分でケーキ作ってんのよ! となる。
結局、二つのケーキを食べることになるまでに一悶着あったわけだ。
アスカも忙しいだろうし。とシンジは言ったが、そういうことではないだ
ろう。誰がなんと言おうが、そういうことではないのだ。
幾つになってもシンジは、甘えるのが下手なんだから。
思い出すだけで、アスカの不満は募る。
アンタの誕生日なんだから、しっかりアタシに祝わせなさいよ、と彼女が
思うのは、至極、まっとうな意見だろう。
ちなみに、アスカは甘えるのが好きだし、甘えられるのが好きだ。
もちろん相手はシンジに限る。
帰宅してから就寝までで、二人きりの時間というのは、かなり少ない。
意識的に作ろうとしなければ、なかなかできない時間である。
それでもそうした時間ができれば、アスカは問答無用でリビングの床に
にシンジを仰向けで寝転がらせる。
これから何をされるかわかっているシンジは、恥ずかしそうにするが、
断るわけでもなく、アスカに言われたとおり、大の字で床に寝る。
アスカは彼の横に両膝をつくと、手も床について、シンジに顔を近づける。
互いの息がかかる距離だが、もう二人とも大人なので気にならない。
その後、アスカは夫の顔を覗き込む。
雌豹が洞窟の奥に何かいないか確かめるようなポーズだ。もしくは、昨日
まであったものが、まだそこにあるかを確かめるような。
シンジも自分も十分焦らせると、アスカは寝ている彼に抱きつく。体にし
がみつく。胸に顔を押しつける。
そこまでされると、シンジの方も待ちきれなくて、アスカをしっかりと抱
きしめてくる。その頃には、アスカは温かく満たされた気分で、たとえるな
ら、たっぷりと湯をはったバスタブにでもなったようだ。
あとは相手を温めるだけ。ゆっくりとシンジのの腕から抜け出して、そこ
から少しばかりずり上がったアスカは、夫の頭を両腕で抱えかえす。
残念ながら、シンジを窒息させるほど彼女の胸はないが、どうせなら、
自分の愛でたゆたって欲しいものだとアスカは考える。
などとしたり、してもらったり延々としているはずなのに。まだ彼の中に
は遠慮があるようだ。これは更なる教育が必要ね、と六月六日のアスカは一
人で確信し、うなずいたのだ。
アタシも愛情表現が上手い方ではないのかも、と彼女は思うが、こればか
りは他人に聞いて回れるものではない。
この世の夫婦の数だけ、悩みはあるということだ。
というわけで、十二月四日、午前十一時五分。
アスカは自分の誕生日ケーキを自分で作ることにした。
シンジの誕生日は、自分が用意したケーキでアスカは祝いたかったが、
それができなかった。
シンジに対して、自分だけに許された特権が奪われたのだ。
お誕生日を祝うことでシンジが喜ぶ顔を見ること、シンジが言う「ありが
とう」という言葉。
それを独り占めする権利が彼女にはあったはずだが、それを理不尽にも
奪われたのだ。
しかも、その許されざる簒奪者は、当のシンジと来ている。
当然、自分には復讐する権利があるはずよね、というのがアスカの考え。
夫は家にいると隙を見て家事だの、アスカの誕生日の準備だのを始めよう
とするので、しばらく帰ってくるなと家から叩き出してある。
なんだかトルストイを家から追い出したソフィアのような気がしないでも
ないが、あちらは夫を野垂れ死にさせたのであり、アスカとしては、あとで
シンジを温かく迎え入れるわけなので、問題はないとしておくことに決めた。
それにしても、なんだか本末転倒のような気がしないでもないが、シンジ
のためであるし、アスカのためでもある。つまり、二人のためなのだ。
シンジが彼自身の誕生日ケーキを作ったのだから、アスカの誕生日ケーキ
はアスカ自身が用意するべきだ。
シンジに、自分の気持ちをもっとわかってもらいたい。
口で直接いえば良さそうなものだが、それができれば苦労はない。
つまるところ、アスカもまだまだ甘えるのが下手なのだ。
作るケーキは、シュバルツヴァルター・キルシュトルテを作ってみること
にした。
ドイツでは人気のケーキで、日本語では『黒い森のサクランボ酒ケーキ』
と呼ばれたりしている。
レシピを確認し、材料と道具を用意し終わったエプロン姿のアスカは、
「さあて」と掛け声を自分にかけつつ、袖をまくりあげた。
その頃、ベビーチェアに座らされているタクトは、アスカの髪がゆれる様
を見ながら、言語化されない思考で、最近の疑問を考えている。
それは、以下のようなものだ。
『あの人はアスカ。
僕が呼ぶとすぐに来て、だっこしてくれる。
アスカ大好き。
呼ばないときもこっちに来て、だっこしてくれる。
だっこ大好き。
アスカのことをシンジはアスカと呼ぶけど、
アスカはアスカのことをママって言う。
アスカっていったい、だれなの?』
それは赤ん坊である間は解決不可能な悩みで、子供になった時には置いて
きてしまう悩みでもある。
タクトは拳をかみかみ考えている。そんな彼の耳を、アスカの声がくす
ぐった。
「タクト〜」
名前を呼ばれて、赤ん坊は悩みを一旦保留する。
ひらひらと枝から舞い散る木の葉のように、悩みは彼の思考からはなれて
ゆく。
タクトは、小さな口をあけ、母の名を呼んだ。
「アチカ!」
ところで、アスカにも、悩みある。
『タクトが自分のことをアチカと呼ぶ。
ママと呼んでもらいたいのになんだろう、この理不尽さは』
彼女の悩みはさておき、次の瞬間、アスカは風のような速さで赤ん坊に歩
み寄ると、彼のわきの下に手をさし入れ、そっと抱き上げた。
赤ん坊の柔らかさと、陽だまりのような存在感のある温かさ、それとずっ
しりとした重さを堪能する。普段は働きに出ているので、こういう日、アスカ
はここぞとばかりにタクトにくっつくと決めている。
「たっきゅん。アスカじゃないのよ。ママなのよ。それで今からママ、
シュバルツヴァルター・キルシュトルテ作っちゃうわよ〜」
『ママ』という単語を強調する。自分を見上げる黒い瞳と見詰め合う。
腕の中で赤ん坊が、はちゃあ、と笑うので自分も笑みを返し、アスカはタク
トの丸いおでこと頬にキスを繰り返す。頬ずりする。できるだけ広い面積で
くっつけるよう、しっかりと抱きしめる。
「いーい? タクト。シュバルツヴァルター・キルシュトルテよ!」
そこでアスカは首をかしげた。
「なんか技名っぽい響きがあるわね。ちょっとタクト、ママの技みてみて。
くらえ、必殺の〜! シュバルツヴァルター・キルシュトルテ!!」
叫びながら、アスカは勢いよく、右手を手刀にして振り下ろす。
タクトはころころと笑うが、意味までわかっていない。
そんな親子のやりとりを、頬杖をついて見ていた葛城ミサトは、缶ビール
をぐいとあおった。
今日の碇家にはミサトが遊びに来ているのである。
「アスカがケーキをねえ」
「ったく。なんでミサトがここにいるのよ」
まだ来て一時間ほどしか経っていないのに、キッチンのテーブルに陣取る
ミサトの前には、空になったビールのロング缶がすでに二本も並んでいる。
「いやあ、今日はせっかくの休みなのにさ〜。加持くんたら、急用が入った
とかいって出てっちゃうし。家にいても暇なのよねん」
「だからって、ウチに来なくてもいいでしょ。それとミサト」
アスカは静かな声で昔の保護者を呼んだ。本来なら、大声で糾弾したい
ところだが、赤ん坊の情操のために、つとめて穏やかになろうとしているの
だ。
「タクトの前ではアタシのこと、ママって呼んでって、何度も言ってんで
しょ」
「なんであたしがアスカをママって呼ばなきゃなんないのよ〜」
「そうしないとタクトがアタシのこと、いつまで経ってもアスカって呼ぶか
らよ」
赤ん坊は周囲の出来事を、しっかりと見聞きしている。
アスカのことを、シンジがアスカと呼び、ミサトがアスカと呼ぶので、
碇タクトは学習する。
髪が紅茶色で、目が青くて、おっぱいくれて、だっこしてくれる、あの人
はアスカ、と。
まだ母という認識はない。
もちろん、アスカとミサトの会話も何を言っているのか、彼にわかるよし
もないのだ。
いつの間にか、アスカとミサトの会話はケーキ作りに話が差し掛かってい
る。
「懐かしいじゃない。シュバルツヴァルター・キルシュトルテなんて」
「あら。ミサトも知ってたっけ?」
「そりゃあ、ドイツに出向してたこともあるわけだし」
ミサトはそう言いつつ、ロング缶四本目のプルタブを開けた。
「そうだ。キルシュトルテおいしく作る、とっておきの調味料があんのよ」
そう言うが早いか、ミサトは立ち上がると、胸の谷間から小瓶を取り出し
た。ポケットからも四角い瓶を一本と筒状の小さな瓶を一本引っ張り出す。
アスカが止める間もなく、ミサトは三つの小瓶の中身をボウルの中で作成
途中のケーキ生地に振り掛けた。
どさどさと勢いよく。
それらはすべてアスカが見たことのない種類のものだった。普通の調味料
ですら、ミサトの手にかかれば、劇薬と化す。その彼女が持ってきたものだ。
まともな調味料のわけがない。
「ちょっと、ミサト! アンタ何やってんのよ!」
アスカが叫んだ時には既に遅かった。
ボウルから白い煙が勢いよく噴出しはじめ、あっという間にキッチンに充
満する。
視界を覆う煙をかき分けながら、アスカはベビーチェアに駆け寄った。
「タクト!」
片手で赤ん坊を抱き上げつつ、彼女はもう一方の手で、周囲の煙を払う。
「大丈夫だった?」
相手は赤ん坊であるので、言語による返事はない。
ぽふ。と小さく咳き込んだタクトは口から白い煙を一つ吐き出した。
それでも、ニコニコと笑っているので、ケガはしていないようだ。
その点では安心だった。その点だけは。
「な、な、なによこれ〜」
アスカは叫びながら、タクトの頭におそるおそる触れる。
赤ん坊の、父親譲りの黒髪が、今では立派なアフロになっていた。そのサ
イズはサラダボウル程度だが、アフロと呼ばれるのに必要な大きさであるし、
十分にアフロである。
「あら〜。タクトくん、ファンキーね〜」とミサトが言った。
「なに言ってんの! このままだと、幼稚園いった時に、あだ名がアフロか、
ロッキーのアポロか、燃えよドラゴンのアフロになるじゃないの!」
「アスカは大げさなのよ〜。後の二つは長すぎるからアフロくんか、せいぜ
いアフトくんじゃないの」
のん気に、たははと笑うミサトに対して、アスカはとび蹴りを食らわせた
い衝動にかられたが、彼女の腕の中には小さなアフロくんがいるので、どう
にか我慢した。
「そういうあだ名がつけられるのが、問題だっちゅーの!」
片腕で赤ん坊を抱えながら、もう一方の手で器用にミサトの胸倉をつかん
だ。
「この責任は、どうやってでも取ってもらうわよ」
「まあまあ、落ちついて。あとアフトくんのアフロがあたしの顔にあたって、
チクチクするんだけど」
「い・い・か・ら! アンタのルノー出しなさいよ」
「なんでよう?」
「ネルフに行くからよ!」
アスカはそれ以外に、解決するすべを思いつかなかった。
■■■ ■■■ ■■■
アスカの心配をよそに、碇タクトはネルフ本部内、赤木ラボの天井を、
くりくりとした黒い瞳で見上げている。
彼にとって、知らない天井ではあるのだが、アスカに抱っこされているの
でそれほど嫌ではない。灰色の天井を見つめつつ、タクトは母の服を、小さ
な手でつかんだりはなしたりする。
自分の手が、グーにしてかじったり、はいはいの時に体を支えるためだけ
にあるのではないことを、すこし前にタクトは発見している。
つかんで放す、という最近覚えた行為が、彼には楽しくて仕方ない。触れ
た時の感触が、彼の脳の発育に程よい刺激を与えている。
今のタクトにとって、ただ一つ残念なことがあるとすれば、アスカがいつ
ものように自分を構ってくれないことだった。
彼の記憶の中では、アスカはいつも笑っているはずなのに、今はなんだか
違うな、と彼は敏感に感じ取っていた。
『つまんないな〜』と思いつつ、そこでタクトは力尽き、アスカの肩にほほ
を寄せる。彼の意識に、睡魔が優しく毛布をかける。
「……それ、本当なの?」
アスカは正面に向き合うように座るリツコに聞いた。どうしても信じたく
はないが確認するしかない、という風に。
寝ているタクトがずり落ちそうになるので、一度抱きなおす。
「ええ。タクトくんの髪は、これからもずっとアフロのままよ」
眼鏡をかけた赤木リツコは、端末のキーボードに何事か高速に入力しなが
ら、それだけ答えた。
「そんな……」
「原因がわからないのよ。対処のしようがないわ。外傷はなくって、彼は健
康そのもの。煙を吸ったかもしれないから調べたけど、気管支も肺もヤケド
はしてないわ。ただ、髪だけが、変質したってことなんでしょうね」
そこまで言うと赤木リツコは、アスカの背後に立つミサトをジロリと睨ん
だ。
「誰かさんが起こした化学反応で」
アスカは眠る赤ん坊を抱きしめた。しっかり抱いていないと消えてしまう
とでも言うように。
どうしてこうなったのだ、と彼女は自問する。もちろん、ミサトが悪いが、
自分ももっと注意できることがあったのではないだろうか。
考えても仕方の無い思考の迷路にはまりかけたアスカだったが、ふと気づ
くと、リツコの動きが止まっている。抱きかかえたタクトも呼吸に合わせて
背中が動くはずなのに、やはりこちらも動かない。
「どうやら、困ったことになってるみたいだね」
唐突にそんな言葉をかけられ、アスカは声がした方に顔を向けた。
声だけで、誰かはわかっている。それで時間が止まっているこの状況も、
理由がわかったような気がした。
彼女が向いた先には、
渚カヲルと綾波レイが立っていた。
■■■ ■■■ ■■■
「僕らで良ければ、相談にのるよ」
涼しげに微笑むカヲルの出で立ちを見て、アスカは思った。
いい年こいて、いまだに白いワイシャツに黒い学生ズボンって、なんかの
変態かしらコイツ。
「今、すこし失礼なことを考えてるようだけど?」
ミサトは相変わらず酒乱のダメ人間だし。お義父さまはむっつり黙ってば
かりだし、コイツも変態か。
あーあ。アタシの周りは変なのばっかりね。
「タクトくんのアフロのことで悩んでるんじゃないのかな」
「そうなのよ」
間髪いれずにアスカは返事をした。それまで全く無視して失礼なことを考
えていたとは思えない。
「いや、ホント、どうなのよ。いくら何でもひどすぎじゃない? この子は
何にもしてないのによ。いきなり髪型をアフロにされるって。いうなればこ
れって、もらい事故よ。もらい事故」
「うん。君の気持ちはわかるけど。いったん落ち着いてもらえるかな。
冷静になろうってことさ」
「で、なんかあんでしょ? アンタらがこういう登場の仕方をしたってこと
は。ぴゃぴゃっ! ぴゃーっ!! って、なんかやったら、タクトの髪が元
に戻ってるとかさ」
「いや。そんな便利な技はないよ。残念ながらね。むしろ、僕らのことなん
だと思ってるのか、聞きたいような聞きたくないような感じだね」
「ミサトの存在が元からなかったことになるとかは?」
「なんでそんなにグイグイくる上に怖いこと言うのかな、キミは。よく考え
てみてよ。もしも彼女がいなかったら、シンジくんとキミ、結婚するまでの
仲になってないよね」
「あー。そういう可能性もあるわね」アスカは頭をガシガシとかいた。
アスカとシンジが出会うだけでいいなら、二人がエヴァのパイロットにな
るだけで、それは達成される。
それだけだったら、二人は単なる同僚、もう少し進んだとしても戦友程度
にしかならなかったのではなかろうか。
葛城ミサトという保護者によって、最初は意に沿わぬ同居を強いられ、互
いに険悪な時期もあったりした。それでも今のようになれたのは、一緒にい
る時間が多かったおかげだし、お互いに少し優しくできたり、素直に弱い部
分を見せたりできる機会があったからだ。
それは、『あの頃』の葛城家だからこそ可能だったわけで、認めるのは
しゃくにさわるが、ミサトは二人の恩人と言ってよい。
ただ一つ、不満を述べるとすれば、彼女がシンジに対して素直な態度をと
ろうと決意し、実行しようとするたび、気配を敏感に察知したミサトがニヤ
ニヤしながらこちらを見ていたことだ。
途中から、アスカはその視線を無視して素直に気持ちを表現するように
なったが、そんな彼女のやけっぱちがなければ、二人の関係は進むのは、さ
らに遅くなっていたおそれもある。
「まあ、ねえ。そりゃ、感謝してる部分もあるわけだし」
アスカがミサト抹殺計画を取り下げると、カヲルはうなずいた。
「君は聡明だねえ。まずはタクトくんの髪型を戻すのが先決ってことさ。
アフロだけにね」
そう言うと、カヲルは、くくくっと笑った。
「アフロだけにって、なんにもかかっていないわ」
と言ったか綾波レイも、なぜか顔を背け、肩を震わせている。どうも笑い
をこらえているようだ。
「は? アンタたち、なに言ってんの?」
わけがわからないので、アスカが聞き返すが、レイとカヲルはお互い顔を
そむけ、たまに顔を見合わせると、吹きだしたりで、答える様子がない。
え? なに? 冗談を言ったってことでいいの?
誰も説明してくれないので、アスカは混乱してしまう。珍しく、どうして
いいのかがわからない。
「何にもシャレになってないのに、得意げに『アフロだけにね』なんて言う
のは、面白いね。笑いは、リリンが生み出した文化の極みだね」
カヲルはくすくすと笑いをもらしながら、レイの脇腹を肘でつついた。
「そうね。なんにもかかっていないのに、面白いわ」
はじめは体をそらして、肘をよけていたレイだが、だんだん自分からカヲ
ルを肘で突き返すようになる。
そこまでいくと、二人はお互い肘でつつき合う。
イタズラを一緒にしでかした共犯者のような雰囲気で。
「アンタたちイチャついてんじゃないわよ! あと、なんで同じこと二回
言ったのよ!」
「え!? 僕がイチャつきたいのは、シンジくんだけだよ」
「奇遇ね。私も碇くんだけ」
レイとカヲルが再び顔を見合わせ、くすくすと忍び笑いをもらしながら
つつき合う。アスカはおもむろにカヲルに近づくと、右のショートフックを
銀髪の青年の脇腹めがけて、どすんと叩き込み、黙らせた。
「今はタクトの髪型のことを話す時間でしょ。なんなの。話って」
「乱暴だなあ、キミは」
カヲルが肩をすくめる。その仕種が妙に似あうので、アスカとしては、
むしろ腹立たしかった。
「わかったよ。僕らが知ってる方法を教えるよ。過去に戻る方法なんだけど
ね。一度やりかたさえわかれば、リリンにも簡単にできるようになるよ。ま
ず理論としては……」
「あ、うん。理論とかそういうのいいから」アスカはカヲルの言葉を遮った。
「方法だけ教えてくれれば。電話とかなんで繋がるかわからないけど、話が
できればそれでいいのと同じね」
アフロになった我が子のことも大事だし、その次には誕生日ケーキも用意
しなければならない。
今日は忙しくなりそうね、とアスカは思った。
「キミがそれでいいならいいけど」
「とにかく今はタクトの髪型を戻すことが最優先よ。仕組みがわからなきゃ
使えないってわけじゃないんでしょ?」
「まあ、そうかな。たしか、シンジくんもこの力、一度使ったことがあるよ
うな気がするよ。確証はないけど」
「ふーん。で、どうやるの?」
「キミはもう、知ってるはずだよ。深く呼吸をしたら、息を止めて、それか
ら目をつぶってごらんよ」
アスカは言われるままに、深呼吸をしてから息を止め、目をつぶる。
まぶたで閉ざされた暗闇の中に、黄緑色に光る幾筋もの流れが見えた。
カヲルの声が聞こえる。
「光ってる流れが見えていると思うんだけど、それがキミたちリリンが時間
って呼んでるものだ。キミはその流れに身を沈めるんだ。最初は調節が必要
になると思うけど、慣れれば簡単だよ。意識だけ好きな時間に移動できる」
返事をするには、呼吸をしなければならないので、アスカは黙ったまま、
うなずいてみせた。
「あとは、タクトくんがアフロになる原因を止めればいいだけだ。幸運を。
碇アスカさん」
「気をつけてね、アスカ」
綾波まで心配そうに声をかけてくるのが、嬉しいような、くすぐったいよ
うな、不思議な感じだった。
アスカは二人がいるだろう方向に再度うなずいて、ゆっくりと、時間の流
れの深いところまで身を沈めた。
■■■ ■■■ ■■■
A『アスカはケーキを買うことにする』
ゆっくりと目を開けたアスカはあたりを見回した。
彼女がいる場所はキッチンで、時計を見ると十二月四日の九時四十五分。
ベビーチェアに顔を向ければ、タクトの髪がアフロから短いおかっぱに
戻っている。
「タクト〜」
それまで張りつめていた気持ちが、一気にほぐれるのがわかる。おもむろ
に赤ん坊を抱き上げ、頬ずりする。
うふふ、と笑う赤ん坊の頬に自分の頬をそっと当てる。その柔らかな頬に
アスカは吸い付いて、それから顔を見合わせながら、アスカは言う。
「ママ、って言ってみて。ママって」
黒い瞳を輝かせ、タクトが口にするのは。
「アチカ!」手をぶいぶいと振り回す彼は、すこぶるゴキゲンである。
「むう。ガンコねえ。シン……」と夫の名前を言いかけて、あわててごまか
す。
「あーあー。違うわよ。パパよパパ。パパに似て、タクトもガンコなのかし
ら」
ママと呼ばれたい作戦は今は後回しだ。
キッチンにミサトの姿は無い。彼女が来たのは十時過ぎだったか。
早めに行動することが肝要だ。タクトのアフロ化をどうあっても阻止しな
ければならない。
タクトがアフロになったのは、ミサトが碇家に来て、ケーキの生地に余計
な調味料をいれたのが原因のはずだ。
それを防ぐためにはどうすればいいか。一瞬で作戦を立てたアスカは、片
腕でタクトをゆらゆらあやしながら、ケータイを取り出した。
すばやく短縮ダイヤル十三を画面に呼び出し、通話ボタンを押す。
呼び出し音が二回鳴ったあと、電話がつながった。
「…………」相手は無言のままだ。
「お義父さまですか? アスカです。ミサトのシフトのことなんですけど、
今日の休みを取り消しにできませんか?」
「……君は挨拶というやつを、タンスにしまいこんでいるのか?」
「すいませんが、タクトの将来に関わることなんで、時間が惜しいんです。
ほら、タクト、おじいちゃんにこんにちは〜って」
赤ん坊の口元にケータイを近づけると、『じ!』とタクトは一言だけ話し
た。
どうですか、お客さん! と言わんばかりの得意顔で母を見るタクトの頭
を、なでる代わりにアスカは自分の頬を二度三度と優しく押し付けた。片手
にタクト、もう片手はケータイでふさがっていたので。
ケータイを自分に戻したアスカは有無をいわせぬ口調で話す。「とっても
大事なことなんです」
「…………たっきゅん…………。あー。タクトの将来に?」
つい吹き出したことが、相手にばれないように、アスカはケータイから顔
をそむけた。
ジジバカもここに極まれりね。録音しとけば良かったわ。そうすれば、あ
とでシンジにも聞かせてあげられたのに。
「ええ。そうなんです。タクトの将来のために、ミサトの休みを取り消す必
要があるんです」
「……わかった。現時刻をもって、葛城ミサト一佐の休暇を取り消すことに
しよう」
「ありがとうございます!」
これで安心だ。ミサトはネルフに行くことになるだろう。
やれやれと思うと、気持ちが高揚してくる。アスカはタクトの首に、鼻先
を押しつけ、その柔らかさを楽しんだ。
うふふ。と赤ん坊は笑う。
しかし、これで安心はできない。念のため、誕生日ケーキも作らない方が
いいかもしれない。
「さて、じゃあケーキは買いに行こっか。タクト」
そう言った時には、アスカは手にした抱っこひもでタクトをかかえ込み、
すでに外出の準備を始めている。
自分の胸に顔をおしつけ、ぷすーぷすーと笑う赤ん坊の頭の匂いをかぎつ
つ、アスカは言った。
「デパートにレッツゴー!」
■■■ ■■■ ■■■
平日昼どきのデパートは、昼食を求めて来店する客で、一階はそれなりに
混雑していた。
「買い物は、常に無駄なく美しくってね」
アスカの体に頬をつけ、行きかう人や通り過ぎる店をぼんやり眺める
タクトに声をかける。
ふと、知り合いとすれ違った気がして、アスカは立ち止まり、振り向いた。
やはり、そこには見知った背中がある。
「加持さ〜ん」
名前を呼ばれた加持は、なぜかびくっと肩をふるわせた。後ろでしばった
髪も、一緒にふるえた。
おそるおそるといった風に振り返ってくるのは何故だろう、とアスカの頭
には疑問符が浮かぶ。
「よ、よう。アスカか。どうしたんだ、こんなところで」
加持は笑顔を見せるが、どこかぎこちない。
「アタシの誕生日ケーキを買いに来たのよ。加持さんこそ、今日は急用があ
るんじゃなかったの?」
「ああ。そうなんだ。急用があってな。そうそう急用があるんだ。それじゃ、
また。タクトくん、バイバイ」
タクトの掌を、二度ほどつまむと、加持リョウジはあわただしく、人波に
姿を消した。
「変ねえ。ミサトの話だとたしか、加持さんて今日は朝から急用があったは
ずなのに。デパートに来るのが急用?」
夫婦間で波風立つようなこと起きているなら、アスカの入る余地はない。
まあ、いいかとアスカはデパ地下のケーキコーナーに向かうことにする。
「あら。オプストクーヘンがあるじゃない」
デパ地下とはいえ、シュバルツヴァルター・キルシュトルテはなかったが、
ショーウインドウに並べられた赤いケーキが目を引いた。
「しかもイチゴなんて珍しい!」
オブストクーヘンもドイツでは定番のケーキだ。薄いケーキ生地の上に洋
ナシやアプリコット、リンゴなど季節の果物が載せられる。
今回はイチゴのケーキだった。
「赤いところが、アタシの誕生日ケーキにピッタリかもね」
と、抱っこしたタクトに話しかけたが、いつの間にか彼は眠ってしまって
いた。アスカは周りを見て、誰も自分たちを見ていないことを確認すると、
赤ん坊の頭に鼻を押し付けた。
■■■ ■■■ ■■■
ケーキを買って帰ると、さも当然のごとく、ミサトが碇家のリビングで、
一人宴会を始めているところだった。
酒のつまみのつもりか、彼女の目の前には通常サイズの1.5倍あるカッ
プラーメンが置かれている。
「何故ゆえ!?」アスカが叫ぶと、ミサトが振り返った。
「あーら。おかえり〜。どこ行ってたの? あんまり遅いから、先に始めて
たわよ」
「何言ってんのよ。ていうか、ミサト。今日、仕事は?」
「やーねえ。お休みよん」
「ネルフから連絡とかなかった?」
ミサトはおっくうそうにケータイを取り出した。
「あら。電池ないみたい。電源切れてる」
ししし。とミサトは酔っ払い特有の笑い声をあげた。
「今日はアスカの誕生日でしょ。これ食べて腹ごしらえしたら、お姉さんが
パーティの準備してあげるわよん」
どこに隠し持っていたのか、調味料らしき小瓶がいつの間にか、ミサトの
手の中にある。三種類の調味料が、カップラーメンにふりかけられる。
その様がやけにスローモーションで目に映るのが、アスカには不思議でな
らなかった。止めようとする自分の動きも遅いのに腹が立つ。
なぜか、白煙があがる速度だけは速かった。
かくして爆発はおこり、アフロくんが誕生する。
『爆発するのは、ケーキじゃなくても良いってことなのね』とアスカは反省
した。
やり直しだ。
アスカは深呼吸し、息を止めると、目をつぶった。
ゆっくりと、時間の深いところまで身を沈める。
■■■ ■■■ ■■■
B『アスカはケーキ作りを教わることにする』
ゆっくりと目を開けたアスカはあたりを見回した。
彼女がいる場所はキッチンで、時計を見ると十二月四日の九時四十五分。
タクトの髪がアフロから短いおかっぱに戻っている。
「タクト〜」
抱き上げて、赤ん坊の直毛の髪を優しくなで回す。
うふうふうふと、嬉しそうに口を開けて笑う赤ん坊に、アスカは宣言する
ように言った。
「ママ、今度こそ上手くやるからね」
今回の作戦は、ケーキは買ってこないこと。そして、自分一人でケーキを
作らないこと。
アスカ一人でミサトに対処できないなら、もう一人いればいいわけだ。
シンジは家に戻すと、彼女の誕生会の準備を手伝ってしまいそうなので、
作戦の頭数に入れないことにする。
一人でタクトのアフロ化を阻止できないなら、親友であるヒカリを呼ぼう
と考えた。
ミサトは内弁慶なところがある。家族と認識した人間にはズボラなところ
を見せるが、それ以外の人間には何故かお上品に見られたいという傾向があ
るのだ。
彼女の性格をうまく利用できれば、爆発は防げるかもしれない。
そうと決まればさっそくとばかりに、アスカはヒカリに電話をかける。
「誕生日のケーキ作り? もちろん手伝うけど、アスカ。あなたの誕生日で
しょ? なんで自分のケーキを自分で作るの?」
親友の疑問はもっともである。
「ケーキに関していえば、リベンジよリベンジ。シンジの誕生日なのに、
アイツったら、自分でケーキ作ってたのよ。だから今回はアタシが用意した
のを食べさせたいのよ」
「あら、それはご馳走さま。でも、本当に碇くんは凄いわよね。この前お呼
ばれした誕生日ケーキだって、碇くんが作ったんでしょ。ケーキ屋さんが開
けるレベルの腕前だと思うわよ」
「和食の定食屋とドイツの家庭料理屋もね」とはたから見ると惚気にしか
聞こえないことを言って、アスカはケータイを持ち直した。「で、勝つため
には助っ人が必要ってわけなのよ」
電話でヒカリに手助けを頼みつつ、自分でも本当に変わったな、とアスカ
は感じている。
エヴァのパイロットだった『あの頃』、誰かの力を借りるなんて、考えも
しなかった。なにより、彼女のプライドが許さなかったと思う。
力を借りることは、負けだと思っていた。自分の弱さを見せるみたいで、
イヤだった。
それがこうして素直に人に頼みごとができるようになるなんてね、とアス
カは考える。
人と人は、助けたり、助けられたりするんで良いのだと、今ならわかる。
それってきっとシンジのおかげだろう。アタシ一人じゃこういう大人にな
れなかっただろうから。
人間関係は勝ったり負けたりじゃないってことを教えてくれたのは、たぶ
ん、シンジだ。
こんなケーキで、お返しできるもんじゃないのかもしれないけど、自分の
人生が実りあるものだと感じられているのだから、何かで返したいというの
は、あって当然よね。この先、何回だって誕生日はあるんだから。覚悟しな
さいよ、シンジ。
などと、電話を切ったあと、アスカは一人で考えつつ、キッチンからリビ
ングを何度も往復してしまう。
ヒカリはすぐに来てくれた。足りないものがあったら困るからと、道具一
式を背負い込んで。
「タクトくん。こんにちは」
丁寧に手洗いとうがいを済ませたヒカリは、ベビーチェアに座る赤ん坊の
両手を自分の手でそれぞれつかみ、
よいよいよい。よいよいよい。
と動かした。
タクトは、かまわれたことに喜んでいるが、数秒ほどヒカリの体のある部
分を凝視すると、すぐにアスカに顔を向け、両腕を広げた。
「アチカ!」赤ん坊は、母を呼ぶ。
タクト。
アスカは心の中で息子の名を呼んだ。
アンタ、ママの友だちになんちゅう失礼なことしてんのよ。
ヒカリの胸を見て、それからアタシを呼んだわよね。たしかにヒカリと
だったらアタシのが多少は大きいけどさ。
ヒカリが気づいてないからいいようなもんで。ヒカリの胸が大きかったら、
しばらく遊んでもらうつもりだったわね。
アンタのパパはそうでもないのに、タクトはおっぱい星人ってわけ?
過去に一度、アスカは胸のことでシンジをなじったことがある。
「アタシはレイほど、胸が大きくないもんね!」と。
自分でも何故そんなことを言う状況になったのか、わからない。たぶん、
シンジのことを好きすぎて歯止めがかからなかったからか。それとも自分に
自信がなかったからか。おそらく、両方だろう。
驚いた顔をしたシンジだったが「そんなことないよ」と言って、首をふる。
「だって、だって……」
と、アスカにしては珍しく、その時、次の言葉がなかなか出てこなかった。
わかってほしいのはそんなことではないからだ、ということが自分ではわ
かっている。ただ、どうしたらそれがわかってもらえるのか、それがわから
ないでいるアスカに、シンジは落ち着いた声で言った。
「たとえばさ、僕が喫茶店に行ったとするよね。好きなコーヒーを飲んでた
ら、マスターがサービスって言ってお菓子を一つくれたらさ。そりゃちょっ
と嬉しかったりするけど、別にお菓子が欲しくて喫茶店に行ってるわけじゃ
ないんだよね。コーヒーが飲みたくて行ってるわけだから」
そう言って、シンジは顔を心もち上げて、アスカに近づいた。
「僕にとってはアスカがコーヒーで、アスカの胸はサービスでくれたお菓子
と同じなんだ。だから、あったって、なくたって、僕がコーヒー好きなこと
に、つまりアスカが好きなことに変わりないんだよ」
彼が自分の首をアスカに見せているのは、意思表示だ。彼の言い分を認め
て許すなら、抱きついてくれと態度でしめしている。
「あ、うん。いや、もちろん、アスカの胸は十分魅力的だよ」
胸も褒めなければいけない、とシンジは急に不安になったのか、余計なこ
とを付け足した。
本当にバカなんだから、とあきれもしたが、アスカは、自分の胸の間から、
すとん、という音が聞こえた気がした。目に見えない矢が彼女のハートに突
き立った時の音が。
その矢が目に見えるもので、なおかつ残り続けるものだったとしたら、彼
女の心臓は今ごろ、ヤマアラシのようになっているはずだ。
ずるい、とアスカはこういう時、いつも思うのだ。
アタシを何回恋に落とせば気が済むのよ。
そして気になることは、シンジのハートには彼女の放った矢が突き立っ
ているのだろうか、ということ。
しかし、もっとずるいのは自分だと彼女は自覚している。シンジが怒らな
いとわかっていて、わざと困らせるようなことを言ったのだから。
彼女が聞きたい言葉を口にするシンジは、いつの間にかすっかり大人になっ
ていて、置いていかれないように、気をつけなきゃ、とその時のアスカは考え
た。
おずおずと彼女は、彼の首に両腕を回し、しっくりくる位置を探す。なる
べく密着する部分が広くなる位置を。
シンジもアスカを抱きしめ返す。
「ごめんね」とアスカがシンジの耳元でささやくと、シンジも「僕こそ、
ごめん」という。
「アーチカ!」
思い出しニヤニヤをしていたアスカを、腕の中のタクトが呼んだので、彼
女は我に返る。
その直後に碇家のインターホンが鳴る。
インターホンのカメラを確認すると、葛城ミサトである。
そこでアスカは考えた。もしかしたら、最初からミサトを家に上げなけれ
ば良いのでは?
「どうしたの?」とヒカリが聞くので、アスカはごまかそうとしたのだが。
「アスカ〜。あたしよ〜」
インターホンなど必要なさそうな大声が玄関の外から聞こえてくる。
「ああ。ミサトさんね。あたしのことなら気にしないで。上がってもらえば」
気づかいという点で、シンジと互角の勝負をするヒカリが言った。
いや、こっちが構うのだとアスカは言いたいところだが、元クラス委員長
のヒカリに、彼女が我を通しきれたことは意外と少ない。
アスカはドナドナの気分でタクトと玄関に向かい、ドナドナの気分でミサ
トを連れてキッチンに戻った。
もちろん、ミサトにすればヒカリなど、ものの数ではない。
当然のようにミサトによるケーキインパクトは起こる。
タイトルは『アフロ、誕生』
アスカは深呼吸し、息を止めると、目をつぶった。
今度はもう少しだけ時間を戻してみようと思った。その分、時間の余裕が
できるはずだ。
ゆっくりと、彼女は時間のより深いところまで身を沈めた。
■■■ ■■■ ■■■
C『アスカはビールを禁止することにする』
「どこ、ここ?」
目を開けると、緑の草原が広がっていた。
少し向こうには鬱蒼と茂る黒い森があり、はるか彼方には地平線が、視界
の端から端まで横たわっている。現代的な建造物、たとえば高層ビルやマン
ションなどが、一つも見当たらない。
彼女は巨大な石でできた舞台のような壇上にいた。その壇に向かい合うよ
うに何百人単位の男女が、アスカを見ている。
彼らの、古代ローマ人のような巻き毛は一様に金髪で、布の服を着たその
群集は、とつぜん現れたアスカを見て口々に叫んだ。
「あんれ。なんだべさ。族長の代わりに、あのおなご、急にあらわれたど」
「いんや。あたし見たが、空から降ってきたわ」
「てことは天使様でないかい。ほれ、なまらビューだべさ」
日本語、ドイツ語、英語とトライリンガルのアスカは、彼らの言葉をなん
とか理解できた。
ドイツ語っぽいけど、これって、古代ゲルマン語よね。
よく見れば、みんなが着てる服、頭からすっぽりかぶる筒型の、あれなん
ていったかしら。たしかチュニック。そうそうチュニック、着てるし。
そう考えたアスカは、なんとなく、今の状況を把握する。
たぶん、欲ばった彼女は、時間でなく時代を戻りすぎたのだ。たぶん二千
年ほど。
アスカは地面にうづくまると、拳で地面を何度も叩いた。
「アタシのバカ! なんでちょうどいいって時間に移動しないのよ!」
おお! と古代ゲルマン人たちはどよめいた。
「なんか天使様、怒ってるんでないかい」と誰かがつぶやいた。
それを聞いたアスカは、ふと悪魔のひらめきを得る。
ビールを発明したのは確か古代ゲルマン人だったわよね。シュメール人
だったかもしれないけど。
彼らは何か勘違いしてアスカを天の使いだと思っている。なんでこんな所
に立つことになったかわからないが、これを上手く使わない手はない。
「チャーンス」アスカはニヤリと笑った。
ゆっくりと両手を上げる。自分の顔よりも上に手をあげたそのポーズは、
前にシンジと観た映画でクレオパトラが取っていたポーズだ。
「皆の衆。聞くがよい」
なんとなく気分が高揚しているのが彼女自身にもわかった。大勢の人に注
目される中、話をするのは気分がいい。
もし、今の人生じゃなかったら、役者か政治家にでもなってたかしらね。
もちろん、今のままがいい。やさしくって料理が上手いシンジと、アフロ
でないタクトとの暮らしが。
自然と気品があるように振るまえるのは、天性のものだ。
「天のおおせじゃ」と、おごそかでありながら、辺りによく通る声音で、
アスカが言う。
ははーっ、と何百人もの古代ゲルマン人たちが、一様に片膝をついて、か
しこまった。
「おぬしらは今後、一切、麦を発酵させた飲み物を作ってはならぬ」
ええーっ、と古代ゲルマン人たちはどよめいた。
「そんな殺生な」
「昔、近所に住んでたシュメール人も飲んでたべさ〜」
口々に不平をもらす古代ゲルマン人だったが、アスカが地面を二度踏みつ
けると、静かになった。
すーっと潮が引くように、あたりが静けさに包まれるのを待つ。プロパガ
ンダは、演出により、さらに効果をあげるはずだ。
「この禁を破ったものは、脳天に雷が落ちるだろう」とアスカが追い打ちを
かけるように宣言した。
「そんなおっかなげな」
「いや、神様ってもともと怒らすとおっかないもんだべさ」
「天使様がおっしゃるんだから、いうこと聞いといた方がいいんでないかい」
「んだな〜」
その場の古代ゲルマン人たちは、一人残らずアスカにひれ伏した。
これでオッケーかしらね。ビールさえ無くなれば、ミサトも暴走しないで
しょ。
アスカは深呼吸し、息を止めると、目をつぶった。
時間の戻り方は、さっきと逆に流れればいいはずだ。
アスカは時間の浅いところに身を浮かせる。
■■■ ■■■ ■■■
ゆっくりと目を開けたアスカはあたりを見回した。
彼女がいる場所はキッチンで、時計を見ると十二月四日の九時四十五分。
ベビーチェアに顔を向ければ、タクトの髪がアフロから短いおかっぱに
戻っている。
「今度こそ、大丈夫かしらね」
赤ん坊を抱えると、現状を認識することから始めようとする。
「ビールは今の世界から無くなったはずよね」
自分の記憶を振り返る。変な感じがするが、今の自分には、過去に飲んだ
はずのビールの記憶が、たしかに無くなっている。
念のため、アスカはパソコンへと向かった。
ネットで検索し、ドイツ人に関する記述を探す。
大まかにかいつまむと、以下のような情報を得ることができた。
『ドイツ人 :堅物な気質を持ち、酒を飲む事は滅多にない。
欧州随一の生真面目な国民気質。
フランス人からは、ドイツ人は心が石でできている、
などと揶揄される。
ドイツ人に関する諺:ダビデ像が笑うジョークなら、ドイツ人も笑うだろう』
(めったなことでは笑わないということを揶揄したもの)
その他、『ビール』で検索したが、『もしかして、ヒール?』しか該当し
なかった。
出てきた結果に、アスカは首をひねる。
「ビールがなくなった他に変化したところが無いのはいいけど、酒を飲むこ
とは滅多にないって、飲むことがあるってことよね」
そこでアスカのケータイが鳴る。
相手はやはりというか、ミサトだった。
「あー。アスカ? これからアンタんち行ってもいい? 加持くんが急用と
かで出かけちゃってさ〜。あ、うん。おかまいなく。自分で飲む分のアクア
ビットくらい持ってくからさ〜」
「ミサト、あんた挨拶をクリーニングにでも出してるの?」
皮肉を言いながらも、心中は『そう来たか〜』とビールよりも苦く、泡立っ
ている。
アクアビット、命の水とも呼ばれるこの酒は、ジャガイモから作られる。
ゲルマン人には、麦を発酵させた飲み物だけでなくて、基本、酒を禁止す
れば良かったのかしら。
「クリーニング? やーねえ。そんなわけな」
ブツッと音がして、通話が切れた。
そういえば、前々回の失敗はミサトのケータイの電源が切れてたからだっ
たわね。
またミサトが襲来するのか。
白旗あげるより何より、逃げるのが一番かしらね、とアスカは思った。
なんで自分の誕生日に逃げ回らなければならないのか、わからないが、
タクトがアフロになるよりはマシだ。
そこでまた、時間の流れが止まっているのに、アスカは気がついた。
「やれやれ」と渚カヲルの声がする。
横目でにらむと、肩をすくめるカヲル、そして特に何も言いたいことはな
いという感じの綾波レイがいる。
「古代ゲルマン人にビールを禁止するなんて凄まじいスケールの過去改変を
行って、それでもビールがアクアビットに変わっただけだなんて、キミの悪
運は尊敬に値するよ」
相変わらず、カヲルとレイの登場の仕方は唐突だ。カヲルにいたっては、
さらに意味深な物言いばかりするので、アスカにはわけがわからない。
こんな奴と話しているときのシンジが嬉しそうなのが、彼女にすれば面白く
ない。
そういった諸々の感情を、アスカは一言に込める。
「何が言いたいのよ」
「キミを優れた存在と認めて、敬うってことさ」
「言い直しただけね」と綾波が顔に表情を出さずに言った。
その後、なぜかカヲルと綾波はくすくすろ笑いながら、互いの脇腹を指で
つつき合う。それはそれはとても楽しそうに。
アスカが注意を引くために咳払いを二回して、ようやく二人は落ち着いた
ようだ。
「やー。ゴメンゴメン。謝罪するよ」
「アタシが十年若かったら、暴力をふるっているところよ」
アスカがそう言えば、カヲルがまぜっかえす。
「さっきのフックは暴力じゃないとでもいうのかい」
「あれはツッコミっていうのよ」
「まあ、でも、この程度の過去改変なら、タイムパトロールの出番は無いだ
ろうね」
カヲルとレイは顔を見合わせて、うなずきあう。
「だけど、あなたはあまりにも乱暴に過去を変えすぎ。本来、時間というの
は物凄く精密なもの」と綾波レイが言った。
「僕らから見ても、君は凄く頑張ったと思うけど、一人では対処しきれない
だろうね」とカヲルが後を引き継いだ。「それで、シンジくんたちにも頑張っ
てもらうことにしたよ」
アスカが、はっとした時には、もうレイとカヲルの姿はそこに無い。
しかし、時間はまだ止まっているようだ。
みゅいーん。
間の抜けた音がした。
■■■ ■■■ ■■■
D『アスカはタクトにヒントを教わる』
みゅいーん。
間の抜けた音が聞こえたので、アスカがあたりを見渡すと、地上から
三メートルほどの高さに直径一メートルほどの穴があいている。
そこから人が落ちてきた。
「うわっ!」と言いながら、落ちてきた人影はくるりと宙で回転すると、
しゃがみ込むような綺麗な姿勢で、音も無く着地する。
「あー。びっくりした。急に落っこちるとはね」
落ちてきたのは少年で、頭をかきかき、誰に言うともなくつぶやいてた。
夏用の半袖ワイシャツに、黒い学生ズボンという服装の少年は、髪は黒く、
瞳も黒く輝いている。『あの頃』の碇シンジに面影が似ている。
当時のシンジより拳一つ分は背が高い。彼のシャツの袖から見えている
腕は、肘から手首にかけて骨ばっていて、これから大きくなるための力を
十分に秘めているように見えた。
「もしかして、タクト?」とアスカは尋ねた。なんとなくの予感がある。
「あ」と今気づいたような顔で少年はアスカを確認すると、そっぽを向いて
しまう。
どうしよう。やっぱ、タクトでいいのよね。この子、アタシのことなんて
呼ぶのかしら。そう考えると、アスカの心拍数は上がってきた。
まさか、いまだに『アチカ』ってことはないわよね。
頬を指でかきながら、少年は口を開いた。
「はじめまして。って、まあ、俺の方は母さんのこと知ってるけど、俺を産
んですぐの母さんに会うのは初めてだから、その、俺は……」
母さんか……。アスカは自分の内側から、なにやらくすぐったい感触が、
湧き水のようにあふれるのを感じている。そのせいで、彼女はくすくすと
笑ってしまうのを止められない。
「タクト! はやくはやく」 穴から聞き覚えのある声がした。「タイムパ
トロールの人たちが来ちゃうよ!」
タクトは頭上の穴に顔を向ける。
「わかってるよ。もう。父さんはせっかちなんだから。だったら、自分で
言えばいいじゃないか」
言われた側は、うろたえたような声を出した。
「いや、その……。若いときのアスカに……。母さんに会うのは、ちょっと
ね。ほら、今の僕は三十九歳で、けっこうオジサンになってるわけで、若い
ときのア……、母さんに見られて幻滅されたら嫌だし」
「何言ってんだよ。いまだに二人で買い物いくとき、手つないで出かけてる
じゃないか」
おー。とアスカは心の中で感嘆し、口もその形になる。
その年になっても、まだラブラブしてるとは、アタシもシンジも結構、や
るわね。良いこと聞いたわ。
姿を見せないシンジが、タクトをうながした。
「いいから、タクトから母さんに説明すればいいと思うよ。自分の髪型の
ことなんだからさ」
「わかったよ」そう言って、タクトは何故か不機嫌そうにそっぽをむいたま
ま、話しはじめた。
「結局、母さんが何をやっても、ミサトさんが家に来ちゃうってことならさ。
大元の原因を解決すればいいと思うんだよ」
「そうは言うけど、お酒に関しては今のところ無理めなのよね」
「そうじゃなくて、加持さんの急用の方だよ。そっちがネックなんじゃない
かな」
それで、アスカもなんとなく理解しはじめる。
「そういえば、ウチにミサトが来る理由って、加持さんがいなくて暇だから、
だったわね」
「それさえ解消されれば、ミサトさんもウチに来なくなると思わない?」
「そっか」アスカは腕組みをした。「そういうことね〜」
「じゃ、母さん。俺の髪型のこと頼むよ。それじゃ、また十三年後にね」
そう言って、芝居がかった仕種で、大きく手を振るタクトの頭上から、
少女の声が聞こえてくる。
「お兄ちゃん、はやく〜。ワームホール閉じちゃうよ!」
「うわ。バカ」十四歳のタクトが焦っている。「喋るっちゃダメだろ。こっ
ちの母さんは、まだお前産んでないんだぞ」
「大丈夫だよ。これで未来が変わるなら、この瞬間にアタシいなくなってる
はずだもん」
「だからって、そんな危ないマネすることないと思うな」
と言うシンジの声が、段々涙まじりになってくるのがアスカにはわかった。
「ミ……。キミがいなくなっちゃうなんて……。グス……。そんなのイヤだ
よ」
「あー、パパ泣かないでよ。もうしないから。ね? もうしない」
未来の父娘の会話を聞いて、アスカは焼き餅を焼く。娘といえど、シンジ
が泣くようなことがあれば、それをあやすのは自分だけに許された役なのだ。
「二人とも、こんなとこでそんな話してないで、早くひっぱり上げてくれよ。
ワームホール閉じちゃうだろ!」
「そうだった。ごめんごめん」
シンジらしき腕と、まだ見ぬ娘の腕が、十四歳のタクトの体を引っ張り上
げた。
穴は現れたときと同じく、みゅいーん、と音をさせて閉じる。元から穴な
んて開いていなかったというように、空間だけがある。
一人残されたアスカは、その場で静かに立っていた。いろいろなことがあ
り過ぎて、少し落ち着かなければ、さすがの彼女も状況を処理しきれない。
そういえば、シンジもタクトもこれから生まれるはずの娘の名前を呼びか
けてたわね。名前はミ、なにかしら。
まあ、いいか。タクトの時もそうだったけど、生まれたとき、しっくり来
る名前が浮かぶだろうし。
そういえば、タクトはアタシのこと、母さんって呼ぶのね。
ママって呼ばれるのもいいけど、母さんって呼ばれるのも、悪くないわね。
なんだかまたくすぐったい気がして、アスカは一人、くすりと笑った。
さて、その辺の話はゆっくり考えるとして。
もう一回、十二月四日に行くわよ。
そう決めたアスカは、深く息を吸い込むと、息を止め、時間の流れに飛び
込んだ。
■■■ ■■■ ■■■
E『アスカは根本の解消をはかる』
目を開けたアスカは、てきぱきと動く。
先ほどの少年タクトとの会話をアスカは思い返す。
ミサトが碇家に来ることになった原因は、加持の『急用』だろう。
先ほどの十四歳タクトも言っていたように、その『急用』を先回りして潰
してしまえば、悲劇は回避できるはずだ。
そういえば、なんで加持さんはデパートにいたのかしら。
考えながら、アスカはタクトを抱っこひもで、自分の体に固定する。
うふふ。と笑う赤ん坊の丸いお尻をなでたり、しっかりと抱きしめたりし
て、遊びつつ、彼女が向かうのはデパートだ。
入り口から入り、デパ地下へと続く下りのエスカレーターまでのどこかで、
アスカは加持とすれ違ったはずだ。
たしか今日のアタシが加持さんと会ったのは、この辺だったわよね。
デパートの一階についた彼女は、あたりをきょろきょろと顔を動かす。こ
の階は婦人服、靴、バッグなどが売られているが、そこまで高い商品ではな
い。
何気ないとき、偶然人に会うということもあるが、何故か探そうとすると、
探し人を見つけられないことがある。
今回もそうだった。かといって、ふらふら移動しながら探すと、本当にす
れ違いになりかねない。
あの時の加持さん、まだしばらくはデパートにいそうな感じがしてたのよ
ね。
女性向けの階に、加持さんがいるってのが、変な感じ。っていうか、今更
だけど、ミサトさえ抑えられれば、タクトの髪もアフロにならないし、アタ
シも自分の誕生日ケーキに専念できるってのに……。
そこでアスカの思考は、何かが引っかかったように感じた。そろそろと、
逃がさないよう、零れ落ちないように今の思考を引き戻す。
誕生日?
あ、そうか、とアスカは、わかった気がした。
暇だと、ぐずるタクトをあやしつつ、近くにいた店員に声をかけた。
「あのー。すいません。迷子の呼び出しをお願いします。名前は加持リョウ
ジって言うんですけど……」
■■■ ■■■ ■■■
館内放送で呼び出した五分後、現れた加持は、アスカを驚きとともに見つ
めた。
「なんでアスカがここにいるんだ。というか、なんで俺がここにいるって
わかったんだ? 今日ここにいることは誰にも言ってないんだぞ」
そういえば、加持とすれ違ったのは、何回か前の話だ。そのことを知るの
は今のアスカだけで、彼は知るよしもない。
「うん。まあ、いろいろあってね」
アスカはタクトをゆさゆさと、ゆすりながら答えた。
「ごめんね、加持さん。これはタクトのためなのよ。だから、加持さんが
ミサトに内緒でデパートに来てる理由がわかっても、ここにミサトを呼ぶし
か思いつかなくて」
「おいおい。俺が知りたいのはそういうことじゃなくてだな」
その加持の言葉にもアスカは答えず、おもむろにケータイを取り出すと、
短縮ダイヤルで電話をかけた。相手はミサト。
しばらく待つが、電話に出ない。まず呼び出し音がしない。
ケータイから、ミサトとは違う女性の音声が流れる。
『おかけになった電話番号は、電波の届かない場所にあるか、電源が切られ
ている為、かかりません』
そうだった〜! ミサトのケータイ、今日は電池が切れるんだった。
アスカは地団駄を踏み、心の中で毒づいた。
あのズボラ女! ケータイくらいいっつも充電しておきなさいよ!
すぐさまアドレス帳から短縮ダイヤルゼロゼロを呼び出す。
「あ、シンジ? アタシだけど。うん。まだ帰ってきちゃダメ。アタシの誕
生日の準備が終わってないから。それはそうとして、今からミサトんち行っ
て、ミサト引っ張ってきて。うん、そう。デパートにいるから。加持さんが
一大事って言えば、ついてくるでしょ。お願いだから急いで。…………。
……んふ。うん。アタシも愛してる」
何かあれば『愛してる』というようにシンジを育て上げるのには、なみな
みならぬ苦労と努力があったな、とアスカはしみじみ感じ入った。
何度も愛していると言うと、『愛してる』の価値が下がる、などと前時代
的なことをシンジは言って、はじめのうち、かたくなに拒んでいた。
そのあたりを、アスカは根気よく、自分でも驚くほど丁寧に諭したわけだ。
歴史上の誰だか偉い人も言っているではないか。
愛よりはじめよ。
その格言にのっとって、アスカはまず自分から愛しているとシンジに言う、
ところからはじめた。
言われた側はもじもじし、顔を赤らめ、どもりつつも彼女が言った言葉を
同じように言った。
そんなことを繰返していくと、言うのが当たり前になっていく。
タクトが生まれてからしばらくして、アスカは赤ん坊を抱えた姿勢で、夫
の首を絡めとった。
自分の肩にシンジの顔を無理やりのせる姿勢をとらせる。背の高いシンジ
は窮屈そうだが、おとなしくされるがままにしている。
夫の耳にアスカは話しかけた。
「ねえ。シンジ。タクトが生まれてから、愛してるっていう相手が、アタシ
はアンタとタクトで二人になったわけだけど、それって一つのものを半分ず
つにしてるわけじゃないって、わかったの。不思議よね、アンタへの愛が
減ったわけじゃないのよ。シンジの分はそのままで、タクトの分が増えた
のよ」
アスカの肩で、シンジはうんうんと頷いた。
「僕もそれ、わかる気がするな」
「でしょ。愛って減らないのね。むしろ、増えるの。だから価値だって、
減る事はないと思わない?」
「うん。そうだね」
このようにして、タイミングさえあれば、シンジから『愛している』と言わせる
ことに成功したアスカだ。
だから、タクトにも出来るはずだ。アスカと呼ばずにママと呼ばせること
が。
何ごとも根気が大切で、あとは繰返すこと。忘れないうちに何度も何度も
反復練習すること。
アスカのケータイが鳴る。着信一回目でアスカは通話ボタンを押した。
「アスカ。ミサトさんデパートまで連れてきたよ」
「ダンケ、シンジ。アタシがいるの一階だからね。今、どの辺?」
アスカは入り口にいるシンジとミサトを見つけた。
「ここ、ここ。手、振ってるわよ。わかった? うん。うん。じゃ、あとは
直接話すから」
ケータイを切ったアスカは、加持に向き直る。
「さ、加持さん。悪いけど、タクトのために犠牲になってもらうわ」
「なに言ってるんだ? アスカ?」
「加持さんが急用なんて言ってミサトをほったらかしているから、ミサトが
アタシんちに来て爆発して、タクトがアフロになっちゃったのよ。こういう
のもバタフライ効果って、いうのかしらね」
「本当に何を言ってるのかわからないな」
「アタシには二つの選択肢があって、どちらかしか選べなかったのよ。
『女か虎か』じゃないけど。加持さんがこっそりミサトの誕生日プレゼント
を買えるようにするべきか。タクトがアフロにならないで済むようにするべ
きか。アタシの答えは元から決まってたわけ」
「いやはや」加持は天を仰いだ。「アイツへの誕生日プレゼント、何にする
か、こっそり見に来ていたんだが、参ったな」
「あら〜。加持くん。今日は急用だとか言ってたんじゃなかったかしら」
ウキウキと、いそいそと、その他あらゆる嬉しいという感情を振りまいて、
ミサトが現れた。その感情が花であったなら、この周辺が花びらで覆われる
のは間違いない。
「それがさ、ミサト。加持さんがミサトの誕生日プレゼント、探しに来たみ
たいなんだけど、一人じゃ選べないって」
「うっふっふ〜」とミサトは赤ん坊のような声を出して、加持の腕にしがみ
ついた。
「おいおい。みんなが見てるだろ」加持が周囲をはばかるようなことを言う
が、まんざらでもない顔をしている。
楽しげにその場を離れていく二人を、アスカとシンジは黙って見送った。
「さ。帰ろっか」
アスカの提案に、シンジはやけに真剣な顔つきで口を開いた。
「ねえ、アスカ。誕生日のことなんだけど……」
彼が言いたいことが、アスカにはわかる。これは女の勘でもなんでもない。
二人の波長が合っているだけだ。
「そうね。アタシも意地はるのやめるわ。誕生日の準備するの、手伝ってく
れるのよね?」
「うん」嬉しそうにシンジは何度も頷いた。「凄いな、アスカは。今そう
言おうと思ってたんだ」
「へっへっへ〜」
得意そうに笑い、アスカは優しく、シンジの鼻先をつついた。
もしかしたら、最初からシンジに手伝ってもらっていれば、こんな遠回り
をしないで済んだのかもしれない。
今更、それでタクトがアフロにならないかどうか、アスカに試すつもりは
微塵も無い。
くすぐったいのか、困ったように笑うシンジを見て、アスカも少しくす
ぐったくなる。
どちらからともなく手をつなぐと、シンジが言った。
「アスカ、お誕生日おめでとう」
「ありがと。またあとで、家に帰ったら、ゆっくり聞かせてもらうわ。
その他いろいろ含めて、ね」
言われたシンジが顔を赤らめるので、アスカはニヤニヤが止まらない。
そうして二人は、家路に着いた。
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F 毎度ながらの蛇足。
最後に、碇タクト最新の疑問を紹介する。
『あの人はアスカ。僕が呼ぶとすぐに来て、抱っこしてくれる。
アスカ大好き。
呼ばなくてもこっちに来て、抱っこしてくれる。
抱っこ大好き。
アスカは自分のことをママと言ってた。
けど、最近はカアサンって言う。
アスカってホントにいったい、だれなの?』
(了)