碇タクトがまだ歩き出す前のころ、その母親である碇アスカの中で、嘘泣きが
流行ったことがある。
たとえば、とある休日の昼下がり。
柔らかく差し込む日の光によって、部屋の空気は暖められている。その中を、
彼女の息子であるタクトが、ははははハイスピードで縦横無尽に室内をはってい
る。手と足を交互に動かして前進すると見えるものが変わる。それが彼には面白
いらしく、うふうふと笑いながら。
そんな時に、アスカは泣きまねをするのだ。
顔に手をあて、『えーんえーん』と泣きまねをするが、大人が見れば嘘泣きだ
とすぐにわかる。しかし、赤ん坊であるタクトには、まだそれがわからない。彼
はただ、母親の泣き声に対して敏感に反応する。
ぴたりと動くのをやめ、首から振り返りつつ、体もアスカへと向き直る。
大抵の人間は、自分が赤ん坊だった時のことなど覚えていないが、赤ん坊は
母親が楽しいのか悲しいのかを、表情や声色から判断することができる。
タクトは、アスカの声色から彼女が泣いているのだと判断する。アスカの顔が
見えないので、確信にまではいたらない。
それを確かめるべく、あとは母親へと一直線に、はははいはははいと進む。
床に座り込んだアスカが、うつむいた顔にあてた手の、指の隙間からそっとの
ぞけば、タクトが方向転換して自分に突進してくるのが見える。
タクトが自分に向かってくるだけで、嬉しくてアスカの口元は自然とゆるんで
しまう。それをこらえつつ、彼女は泣きまねを続ける。すると彼女の前までやっ
てきたタクトが小さな手で、「どうしたの? 大丈夫?」と言うように、アスカ
の手をどける。
彼女の視界に、自分を見上げ、心配げに父親と同じ黒い眉を寄せている赤ん坊
の顔が入ってくる。目元も父親ゆずりだ。
そこで、アスカは「ばあー」と言って笑ってみせると、タクトも安心したかの
ように、うふうふと笑うのだ。
愛する我が子に心配されるのが、アスカは嬉しくて楽しくてしかたない。その
半面、嘘をついている分、悪いことをしているとも感じている。この遊びが教育
上あまり良いことではないのは彼女自身もわかっているが、なかなかやめる
きっかけが見つからないでいた。
それでもやめることができたのは、シンジにやんわりと釘を刺されたからだ。
「今はタクトも心配してアスカを見にきてくれてるけどね。ママが泣いているよ
うに見えたとき、実は泣いてないんだなってタクトに思われたら、いつかホント
にアスカが泣いてるとき、タクトが心配してくれなくなるよ」
「え!? なんでそうなるの?」アスカは愕然とする。
「だって、タクトはママが泣いていると思ったから心配して寄って来るんだよ。
それが泣いてないってなったらさ、泣き声がするけどそういう時、ママは泣いて
ないんだってタクトは思うよね? そしたら心配しなくなると思わない?」
それは困る。
仕方ないので、アスカは、タクトの前で嘘泣きをしないことに決めた。
嘘泣きをしないまま、三年ほど経つ。
エイプリルフール記念SS
「今日は、夜になるのが遅いね」
三月末の夜風には、まだ足元に忍び寄るような冷たさが含まれている。
彼女の気持ちは上ずっているが、近づく春の陽気のせいではない。
アスカはアクセルを踏み込んで、ためらいもせずその風の中に飛び込んだ。
ちらりと目だけを動かして、車内のデジタル時計を確認する。時間的に、まだ
間に合うはずだ。彼女の息子であるタクトが寝るまでには。
彼女の車が通過するタイミングで、交差点の進行方向の信号がすべて青に
なっているのは、ネルフが誇るスーパーコンピュータシステム・マギの操作に
よるものだ。
これで大幅に帰宅時間を短縮できることになる。
自宅のマンションにたどり着いたアスカは、よどみないハンドルさばきで、きれ
いなカーブを車で描き、車庫入れを一発でこなす。
マンションのエントランスに入った彼女を、コンピュータ制御のエレベーター
が待ち受けていて、ぴったりのタイミングでドアを開けるのもマギのおかげだ。
そのエレベーターが移動している間も待ちきれず、アスカはその場で足踏みする。
目的の階に到着したアスカは、自宅の玄関まで、春物のコートの裾をなびかせ
て、廊下を走る。
彼女の気持ちは、甘酸っぱいような嬉しさと、泡立つような焦りが半々の、炭
酸水のようだ。自動式の玄関が開ききるのが待ちきれない。アスカはまだ半分し
か開いていない玄関の隙間へ、体を斜めにし、滑り込むように帰宅した。
「たっだいま〜」ひそめた声で家の中へと彼女は声をかける。
この時間帯、娘のミライは寝ているはずだ。大きな声を出して、生後数ヶ月の
長女を起こしたくない。
玄関に座ってアスカがパンプスを脱いでいると、フローリングを素足で歩くぱた
ぱたという音がする。顔だけで彼女が振り返ると、廊下の角から顔を出したタクト
と目があった。
屈託のない笑顔の長男を見ると、やっぱり父子だと感慨深い。見たことはない
が、小さいころのシンジもきっと、こんな感じだったのだろう。
「おかえり〜」声はアスカと同じくひそめているが、タクトは満面の笑みを浮か
べている。本人もまだ幼いながら、妹の眠りを邪魔しないという配慮ができてい
るあたり、さすがお兄ちゃんというところか。
彼が着ている水色のパジャマには、小さな流れ星が規則的に飛んでいる。両手
を伸ばしたまま、小走りにアスカへ近づくと、背後から抱きついた。
アスカは小さく「ただいま」と、もう一度言う。
靴を脱ぎ終えたアスカは、座ったまま体を回し、息子の頭をわしわし撫で回す。
柔らかさと弾力が絶妙な比率で構成された頬を、指先で小さく円を描くように撫
で回す。きゅうっと抱きしめ、自分の鼻をあちらこちらと押し付ける。
タクトはそのたびに、「うふ」とくすぐったそうに笑う。
アスカは何度も何度も「だーいすき」とタクトに言い続ける。「だーいすき」
と「だーいすき」の間に頬へのキスや、額へのキスや、脳天へのキスを挟み込む。
なるべく広い面積でくっつき合えるように、しっかりと抱きしめる。それこそ、
彼女の中の何かが、これ以上ないというくらい充填されるまで。
その後、洗面所でメイクを落としつつ、足元にまとわりつくタクトに話しかけ
る。
「一人でパジャマに着替えられて、歯も磨けた?」
「うん。歯もみがけた」
「じゃあ、今日の読んでもらう本は二冊ってわけね」
ご機嫌で、うふふと笑うタクトを抱き上げ、アスカはリビングへと進む。
「ミライは寝てるのよね?」
ささやくようなアスカの問いに、タクトは前髪を揺らしながら、こっくりと
うなずいた。
「ねてるよ」
「アスカ、おかえり」シンジの声に、アスカは小さく返事をすると、リビングを
通り抜け、そのまま寝室へと向かう。
何年か前までタクトが寝ていたベビーベッドでは、昨年うまれたミライが寝て
いる。小さくバンザイをするような寝相で、呼吸に合わせて、お腹が小さく動く
のがわかる。
アスカは抱き上げていたタクトを床におろすと、ベビーベッドの上で眠るミラ
イに顔を近づけた。赤ん坊特有のミルクの匂いが鼻をくすぐる。
そっとミライの体の下に両腕を差し入れ、布団の上に寝かせたまま、優しく抱
きしめる。ぷっくりとした頬に唇をそっと押し当てながら、娘の髪の匂いをかい
だ。
あまり強くキスをすると起こしてしまうので、その辺りは気を使う。
タクトが生まれた直後は、不安でたまらなかったものだ。それまで知らなかっ
たが、赤ん坊というものはふにゃふにゃとして柔らかいのだ。ぎゅっと抱きしめ
たら潰れてしまわないか、かといって力を抜きすぎたら落っことしてしまうので
はないか。
泣いている時は何をしたら泣き止むのかがわからない。
そもそも、なんで泣いているのかがわからない。お腹がすいているわけでもな
く、おしめが濡れているわけでもないのに泣かれた日には、お手上げだ。
相談しようにも、周囲の大人たちは、育児経験ゼロの人間ばかりで頼りになら
なかった。
加えて、タクトはおとなしいこともあって、本当に息をしているか、寝ている
赤ん坊の鼻先に彼女は自分の耳を近づけ、寝息を幾度となく確認したものだ。
育児ノイローゼ寸前だったアスカを、見かねたシンジが言った。
「大丈夫だよ。僕らだって、いろいろあったけど、こうして大人になったわけだ
し。それにアスカはもう十分、しっかりやってるんだからさ」
それでアスカは少しだけ気が楽になったように思う。というか、そんな精神的
余裕があるシンジが少しうらやましく思った。本来なら、彼の方が、そうしたこ
とに逐一心配しそうなものであるが。
そうした疑問をぶつけたところ、シンジの答えはシンプルだった。
「僕一人じゃ難しいと思うよ。だけど、僕にはアスカがいるわけだし」
それを聞いたアスカは、こう思った。
てことは、アタシにはアンタがいるわけね。
それで、少しは気が楽になったのだ。
そこへいくと、ミライは本当に楽だ。二人目だから心の余裕ができたのもある
が、とにかく丈夫なのだ。タクトのように外でちょっと風に吹かれただけで、そ
の日の夜に熱を出すようなこともない。
ミライはいつもニコニコしている。紅茶色の髪はまだ綿毛程度にしか生えてい
ないが、同じ頃のタクトより体重も重い。あまり大きい音だと起きてしまうが、
少しくらいの物音では目を覚まさない。
眠るミライの口が、『ぴよぴよ』とひよこの鳴きまねをするときの『ぴ』の形
に開いている。寝ているときも元気なせいか、すぴー、すぴー、すぴぴぴぴ。と
聞こえるのはミライの鼻息だ。赤ん坊にしては長いまつ毛が、寝息にあわせてか
すかに揺れる。
女の子でこの寝息はどうなのか、とアスカはそこだけ多少心配ではある。
名残りは惜しいが、どうせあと一、二時間もすれば授乳の時間になる。そこで
母子のスキンシップはまた取ればいい。
足元で大人しくしていたタクトに声をかけた。
「タクトは今日、何を読んでもらうの?」
「これとこれ」
得意げに見せるのは、「おなかのかわ」と「くまのがっこう」の二冊。
■■■ ■■■ ■■■
「絵本の読み聞かせ?」
はじめてシンジからそう聞かされたとき、アスカの頭まわりにはクエスチョン
マークがいくつも浮かんだ。それらはその場でフワフワと漂う。
本というものは、彼女からすれば一人で読むものと決まっている。小さい頃、
それこそ四歳の頃から。
だからシンジが言っている意味が、よくわからなかった。
「本なんて、自分で読むもんでしょ?」
「そうなんだけどさ」そこまで言ったシンジは、何かを悟ったかのように、はっ
とした表情になる。そのまま口をつぐんでしまう。
「どうしたのよ」
「あ、いや。アスカは小さい頃から一人で本が読めたんだもんね」
「気を使ってくれなくてもいいわよ」
アスカは小さく鼻を鳴らした。その動作一つで、自分は気にしていない。だ
からシンジも気にするなという意思表示をする。
「アタシは本を読んでくれる人がいなかっただけだし、四歳か五歳の頃には絵本
なんてとっくに卒業して、研究論文だとか学術書なんかも、スイスイ読んでたか
ら。それで、読み聞かせをすると、どうなんの?」
「寝る前に本を読んで聞かせるのは、情操教育にいいんだって」伏し目がちにシ
ンジは言った。
「ふーん」アスカにしてみれば、いまいちイメージがわかないが、反対する理由
もない。「ま、いいんじゃないの」
「じゃ。そうするね。僕が読むけど、そのうち、アスカも読んであげてほしいん
だ」
「はいはい」
などと、シンジまかせなアスカだったが、その晩、タクトの横でシンジの読み
聞かせを聞いてからは、すっかりハマってしまう。
読み聞かせの手順として、ベッドの上に座ったシンジが、壁に背中をもたれか
ける。あぐらをかいた彼の足の間に、タクトがすっぽりと入る。大きな浮き輪で
海に浮かぶように、座るような寝るような姿勢だ。
アスカはシンジの隣に座り、夫の肩と自分の肩を密着させる。
タクトの頭越しに絵本を覗き込む。あまり顔を出すと天井の明かりが遮られて
絵本を暗くするので、そこは毎回気を使う。
そうして「むかーし、むかし」で始まる昔話や、個性豊かなキャラクターが動
き回る絵本は、早くから子供であることを否定し、早く大人になろうとしていた
彼女にしてみれば、むしろ新鮮だった。
絵本なんて子供向けだろうとアスカは軽く考えていたが、読み聞かせとは奥が
深いものだと、認識を改めた。ただ本を読むだけではないようだ。同じ物語や同
じ時間を、家族と共有するというところに、読み聞かせの良さはあるという考え
にアスカは到達した。
これは自分が小さいころに得られなかった経験だ。たぶん、シンジも同じだろ
う。そうアスカは考える。
百万回も生きた猫の話では号泣したし、くまのがっこうでは、シンジの感想と
して『ジャッキーはアスカに似てるよね、頑張りやだけど、寂しいと泣いちゃう
ところとかさ』というのを聞いて、アタシはそんなに泣いていない! と憤慨し
つつも、それ以来、くまのがっこうシリーズが気になっている。
そうした絵本の内容もさることながら、本を読んでもらうという行為そのもの
が、彼女の心の奥深くに沈んでいた何かを揺り動かしたのだ。
人間はその時々で、必要とするものがある。子供の頃やエヴァのパイロットだ
った頃には意識していなかったが、あの頃の自分やシンジに必要だったのは、愛
されることだったのだろうと、アスカは考えている。それは自分の能力を認めら
れることでなく、ただ自分という存在を、認めて肯定されるということだ。
『あの頃』に必要としていたものが、その時、手に入らなかったからといって、
ずっとそのままというわけではないはずだ、とアスカは思う。現に今の彼女には、
シンジがいて子供たちがいる。与えるときは惜しみなく愛情を与えているし、彼
らからの愛情を受け取るときは遠慮なく受け取っているつもりだ。
答えなんてないのはわかっているが、それらを愛情と呼んで、まず間違いない
だろう。
でないと、事象としては、ただ抱きついたり抱きつかれたりした時の体温の交
換であるはずなのに、それ以上の暖かさを感じることに説明がつかない。
読み聞かせというのは不思議なものだ。タクトと隣り合って座り、絵本を読ん
でやるだけなのに、読んでいる自分も暖かいのだ。
シンジがタクトに絵本を読んでいるのを、隣で聞いているだけなのに、暖かい
のだ。
こんなことなら、もっと早く始めれば良かったとアスカはもったいなく感じる
が、遅すぎるということはない。今からで十分取り戻せるはずだ。
ずっと昔、自分が子供だった頃の時間は取り戻せないが、今を積み上げること
はできる。それはとても楽しいことだった。
それもこれもシンジのおかげだろうというのが、アスカの素直な感想だ。
彼からならこれ以上があると思える。これが他の男だったら、ここまで来るこ
とはなかったのではないだろうか。というか彼女には想像もつかない。
百万回生きた猫ではないが、これで死んで生き返らなくても、自分の人生に満
足できそうだ。まあ、アスカにしてみれば輪廻転生など信じていないが、それで
ももう一回くらいはあってもいいのではないか、と少し欲深なことを彼女は考え
ている。
■■■ ■■■ ■■■
今はタクトに便乗して、シンジに絵本を読んでもらう時間だ。
「くまのがっこうなんだ〜。ラッキー」
アスカはタクトをかまうために、わざとはしゃいで見せた。
嬉しそうにしている母の顔を見上げ、うふうふと笑うタクトに、シンジが後ろ
から声をかけた。
「タクト。くまのがっこうにした理由、教えてあげたら?」
なんだろう。なんの話だろう。アスカは心の中で姿勢を正した。
じっと息子の顔を見れば、彼は手を自分の後ろに組み、もじもじしてからぼそ
っと言った。
「それはね、ママのぶんなの」
頭脳明晰のアスカだが、タクトのことではわからないことが多い。幼少時に愛
されるという機会が少なかったからなのか。それは今十分受け取っているはずだ
が。本当に難しい。
「七時半までに歯を磨いて、一人でパジャマに着替えたから、今日は絵本を二冊
読むんだけどさ。そのうちの一冊は、ママの好きな絵本にするんだって」
それを聞いた瞬間の、アスカが心に受けた衝撃は、寝ている時にたっぷりと湯
をはったバスタブに放り込まれるのに似たものがある。
実際に寝ているとき風呂に放り込まれたことがないから、その感覚はアスカの
想像でしかないのだが、唐突にふわりとした無重力と、覚醒した神経が切り替わ
る際の、押しボタン式のロッカスイッチをパチリと押したような感覚と、その後
は暖かいものに包まれる感覚が、順番に訪れた。浮遊感、驚き、暖かさの順番で。
「ママのために? 自分の分の本、譲ってくれたの?」
そうと気づかないまま、泪が流れている。アスカは、おいおいと泣きながらタ
クトを抱きしめた。
あー。言うタイミングを失敗したかな、と頬を指でかきつつ、シンジは困り顔
になる。
■■■ ■■■ ■■■
絵本を読み終わったあと、アスカに時間の余裕があるときは、ベッドの上で
タクトは掛け布団にくるまり、眠る準備万端にし、その隣で、彼女も横になる。
早く寝かしつけた方が良いのだろうが、そうすると起きているタクトに会える
のは、次の日になってしまう。
さらに言えば、少し前にアスカはタクトに質問されたことがあって、これが結
構衝撃的だった。
「ボクとミライと、どっちが好き?」という質問をされたのだ。
それにアスカは「どっちも大好きよ」と答えた。
それは当然のことだ。そして心の底からの本心でもある。教育的なことをいう
と、『どちらが好き』とか、『誰々が一番好き』というのは、子供の前で言うべ
き言葉ではない。
その子供のことを一番好き、と言ったところで、その子はいつか自分より好き
な人が現れるかもしれないという不安にかられることになる。兄弟がいる子供な
ら、どの子も同じように大好きで大事なのだと伝えることが重要だ。
アスカもそうした質問への返答は、わかりすぎるほどわかっている。育児書も
山ほど読んだ。シンジと話し合いもした。それは自分の子供を大事に思うから
だ。子供に対してする努力を、アスカもシンジも苦労と思わない。
大事なのは、タクトがどうしてそんな質問をしたかだ。
「どうして気になったの?」
「ううん」とその時のタクトは目を伏せた。「なんとなく」
なんとなく、でする種類の質問ではない。下に弟妹ができたときに上の子が
する質問だ。はっきりと『もっと自分にもかまってくれ』と言いたいのに、お兄
ちゃんだからと甘えたいのを我慢している時にする質問だ。
それからというもの、アスカは、タクトが眠りにつくまでの時間を、なるべく
一緒に過ごすようにしている。この時間帯は、タクトのための時間なのだと彼に
もわかるように、態度で示すようにしているのだ。
タクトが寝てしまえば、それまでの時間でもある。それでアスカは適当に思い
ついた即興の話をして、一緒にいる時間が終わるのを少しだけ先延ばしする。
お話など簡単に思いつくものではない。オリジナリティを出すのもなかなか難
しい。どうしてもお姫さまと王子さまの話になってしまう。
アスカが作る話には、たいて超美人のお姫様が出てくる。
紅茶色の髪をなびかせて、突っ走る性格のお姫様だ。そのお姫様には旅の
仲間がいて、こちらは旅の途中で出会った王子様で、優しくて料理がうまくて、
引っ込み思案だけど、やる時はやる王子様で、おもにお姫様がピンチの時に
助けてくれる。
そんな二人が、「困った困った」しか言わない村人の住む村を困らないように
したりする話などをタクトに聞かせる。
村の長老が「困った困った」というシーンで、アスカはしわがれた老人の声を
出す。それを聞いたタクトがうふうふと笑う。彼女はこうした声色を出すのが
得意だ。ただし、あまりやるとタクトが話に集中しなくなるし、笑わせすぎると
興奮したタクトが寝なくなるので、やり過ぎには注意が必要だ。
その話の最後はいつも、お姫様が王子様をムリヤリ引きずってまた旅を続ける
ところで終わりになるのだが、タイミングよくシンジが現れて感想を言うのだ。
「たぶん、その王子様はムリヤリ連れてかれてると思ってないんじゃないかな。
そのお姫様のことが、大好きなんだろうな〜」
それを聞いて、アスカとタクトは顔を見合わせ、くすくす笑う。あとは子供に
目をつむらせ、ぎゅうっと抱きしめているとタクトの寝息が聞こえてくる。これ
が毎晩のルーチンになっている。これが碇家の誰にとっても、大事なことである。
それでその晩も、アスカは紅茶色の髪のお姫様の話をして、最後にタクトと
二人でくすくす笑った。
目をつむったタクトが、眠りに着く前の、ひそやかな声を出した。
「レイちゃんとカヲルくん、明日あそびに来るかな〜」
綾波レイと渚カヲルは、何かと理由をつけては遊びに来る。父親に似てきた
タクトに対しての二人の構いっぷりは、シンジも驚くほどだ。二人が来ると昼間
に元気を爆発させるので寝るのが早くなる。二人が来るのは喜ばしい半面、
帰ったときにタクトが寝ているのが、アスカには多少不満である。
「そうね。来るといいわね〜」
「二人とも、このおうちに住んだらいいのに」
母と子でひそひそと話しているうちに、二人は手をつないだまま睡魔の滑り台
をすべり、眠りの砂場へと降りてゆく。
アスカに関しては、小一時間もしないうちに、シンジが砂場からひっぱり上げ
てくれる。子供と違って、大人にはやることが沢山あるのだ。
■■■ ■■■ ■■■
次の日、目を覚ましたアスカがキッチンに行くと、当たり前のようにレイとカ
ヲルが並んでテーブルにつき、テーブルを挟んで向かいに座るタクトと話してい
る。起きた順に朝食を食べて始めているようだ。
綾波レイがパンで、渚カヲルがご飯に味噌汁という献立のあたり、シンジのま
めさにアスカは舌を巻く。
「おはよう」気配で振り返ったシンジが、にこやかにタクトの前にプラスチック
の皿を並べていく。
「おはよう」アスカもすとんと席につく。
いつもこんなだったかしら。
アスカは違和感を覚えるが、すぐに消えてしまう。電車の中から外の景色を見
ていたときに、一瞬だけ何か不思議なものを見たような感覚だ。あれ? と思う
が、その時には既に通り過ぎていて確認のしようがない。
そんなに時間があるわけでもないので、アスカはそのまま食べ始めた。
途中で、カヲルがシンジにからむ。
「シンジくん、朝ごはんありがとう。お礼というわけじゃないけど、僕がキミの
ご飯をよそうよ」
よせばいいのに、シンジもマジメに答えるのだ。
「カヲルくん……、それって」
「配膳するってことさ」
アスカがイライラしては負けだとわかっていても、言わずにはいられない。
「はーい。言い直さなくてもいいんじゃないかって思うの、アタシだけ〜。
っていうか、アンタたちって、いつから朝ごはん、ここで食べるようになったん
だっけ?」
「いやだなあ。前からじゃないか」そこでカヲルは首をかしげた。「いつからか
は思い出せないな。だけど、前からだよ」
そう言われると、そんな気もしてきた。それにしても、釈然としない話だ。
だいたい、親子四人で暮らしている家が、昔からの知り合いだからといって
同居させたりするものだろうか。何かおかしい気がする。
「二人とも、どこで寝てんのよ」
「寝袋さ。リビングで」
それで何気なくリビングを見ると、確かに寝袋らしきものが二つあって、リビ
ングの隅に丸められた状態で置いてある。
うーん? とアスカは軽くうなる。いつからあったのだろうか。あの寝袋は。
「ちがうよ」とタクトがニコニコしながら口を開いた。「レイちゃんとカヲルく
んは二段ベッドで寝てるんだよ」
「そうか。そうかもしれないね」
カヲルがそう言って、レイとうなずきあった。
アスカが何気なくリビングに目をやると、そこには二段ベッドが置いてあって、
寝袋が見当たらない。ベッドのせいで、空間がせまく感じる。
「あれ、寝袋は?」さっきまであったはずなのに、見当たらない。
「どうしたの? アスカ」
シンジに聞き返されて、アスカ自身もなんで自分が「寝袋」などと言ったのか
わからないことに気づく。
「ううん。なんでもない」
軽く首を振ったアスカは「ホントに」と言い添える。シンジに心配をさせない
ために。
「それより、シンジ。前から言ってたけど、今日は午後からネルフでお花見だか
らね」
黙々と食べ続けるタクトの世話を焼きながら、シンジは答える。
「うん。聞いてるよ。それで、晩ご飯は家で食べるんでしょ。大丈夫だと思うけ
ど、お酒、飲みすぎないようにね」
「あに言ってんのよ。アンタも来るのよ」
「でも、ボクはもうネルフとは関係ないし。夕飯の支度もあるし」
結婚してからのシンジは、碇ゲンドウや葛城ミサトといったネルフ関係者との
交流はあるが、ネルフ自体に足を運ぶことは滅多にない。ネルフで働くアスカが、
弁当のおかずにつけるマヨネーズを忘れた時などに、持って行くくらいのものだ。
それだって入り口の警備員にアスカを呼び出してもらう程度で、中には入らない。
「たしかに何がどうってわけじゃないわよ。ただ、シンジはどうしてる? って
ネルフの人たちに聞かれるんだからさ。何か面白いことやれとかそういうのじゃ
なくてね。お花見に来るだけで、シンジが来てくれたって喜ぶ人がいるんだから、
アンタ来なさいよ。長老にも、会うたびにシン坊どうしてる? とか聞かれんのよ。
お義父さんも冬月副司令もミライはどうしてる、ミライは元気かって、うっとうしい
くらいでさ」
アスカは緑茶を飲むレイと、コーヒーカップを手にしたカヲルに顔を向けた。
なんで飲み物は逆になるのかしらと不思議に思いつつ。
「レイとカヲルも呼ばれてるんでしょ?」
無言のまま、レイとカヲルはうなずいた。
「だから、アンタも来なさいよ。タクトもこういうときは、幼稚園休んだらいい
し」
「ふーん。じゃあ、皆に挨拶だけ、しにいくよ」
「タクトもママに会いたいでしょ?」
「会いたい」真剣な顔で朝食を食べているタクトが言った。
好きな相手に好意を寄せられるのはいいものだ。それが自分の子供であっても
だ。
お花見は、正午から開始の予定だからね、と言ってアスカは出勤した。
■■■ ■■■ ■■■
どこのお花見もそうだが、昼から酒を飲む場合、ボルテージは最初から上がる。
きっと、昼から酒を飲むという行為に、軽い背徳感があるからで、それが酔いを
早めるのだろう。
目的地である公園につくと、すでにお花見があちことで始まっている。人数か
らいって、ネルフの職員だけではないだろう。公園の中は、酔っ払いでできた迷
路のようだ。
一度はぐれたら、探すのが大変だぞ。とシンジは背中のミライをしょい直した。
「タクト。抱っこしようか」この状況で移動するなら、タクトを抱きかかえた方
が早い。
「大丈夫。ボク、お兄ちゃんだから」
「じゃ、せめて手をつなごう。ここでパパとはぐれたら、ママに会えなくなっち
ゃうよ」
そっと左手を出し、タクトの小さな手をそっと握る。この手は離さないように
しなきゃ、とシンジは少し大げさに決心する。
歩いて、少し迷いはしたが、なんとかネルフ御一行様のお花見の席にたどり
着く。
とっくに酒宴は始まっていたようで、ネルフの面々の頬は、すでに桜よりも桜
色になっている。
ミサトさん顔赤―い! パターン桜! 泥酔と確認! とケラケラ笑っている
のは声からすると伊吹マヤだ。
アスカの隣にたどり着いたシンジは、眠るミレイをアスカに渡した後、腰をお
ろした。
座る場所なんて、本当なら端っこで全然構わないのだが、久しぶりに会うネル
フの職員に会うたび、
「おう。シンジくん」「あれ、タクトくん大きくなったなあ。何歳?」「ミライ
ちゃんまつ毛ながーい。お母さん似ね」「やあ。シンジくん」
と、次から次へと声をかけられ、気づけば宴の中心にいたアスカの席まで運ばれ
てきた。シンジにしてみれば、リレーで運ばれるバケツの気分だ。
わいわいと人々の歓声があがるこうした席が、昔は苦手だった。今は、率先し
て参加したいわけではないが、たまになら良いかと思えるようにはなっている。
何が変わったのだろうかとシンジは考える。自分が変わったのか、周りとの関
係が変わったのか、そのどちらかだろうか。
横座りのアスカの隣に座るタクトは、ぴったりと体の側面を母親にくっつけて
いる。
「何食べる?」とアスカに訊かれたタクトが答える。
「かまぼこ」
片手でミライを抱きながら、アスカは反対の手で箸を操り、重箱の中で白とピ
ンクが交互に並んだかまぼこを摘む。
それを口元まで運ばれて、あーんとタクトは口を開ける。少し齧って、アスカ
と顔を見合わせ、『ねー』と何かを確認するように、母子は同じように首を傾けた。
そうした姿を見て、なんとなくシンジは、わかった気がした。
自分が好意を向けたとして、拒絶されないし、無視もされない。
好きだと言っていいし、態度で示してもいい。
『あの頃』は、そうではなかった。ように思う。
もしかしたら、受け入れられたかもしれない。関心をもたれたかもしれない。
ただ、それを自分から見せるのが怖かった。
今は違う。それは絶対確実だ。
アスカなら、自分がどんな深い穴倉に引っ込んでしまおうと、必ず追いかけて
きて、そこから引きずり出してくれるだろう。そんな確信がある。
はたから見ればバカらしい考えと笑われるかもしれないが、自分がそう思える
からそれでいい、と思えるようになった。
そうして、周りの人たちと一緒に変わってきたのだと、実感してシンジは泪が
出そうになる。
「タクト。パパのこと、つっついて」
アスカの声がして、自分の腕を小さな手がなでた。シンジが顔を上げると、ア
スカとタクトが彼を見ている。
「なーんか、一人で考え込んでたでしょ〜。アンタもアタシも、一人で考え出す
と暗い考えが浮かんじゃう性質なんだから、ため込んでないで、アタシに言いな
さいよね〜」
ほらね、と誰に言うでもなく、心の中でシンジは言った。
「え〜。宴もたけなわではございますが〜」
日向マコトが立ち上がった。酔っている彼を見るのは、シンジにしてみれば自
分の結婚式以来だろうか。
「一番、日向マコト! 手品やります!」
皆がマコトに顔を向ける。始まる前から、やんややんやと周りから声がかかる。
自分に注意が向いたことを確認すると、マコトは左の袖をまくった。
「それでは、手品にはコインが必要なんで準備しますね」彼が左手を動かし、空
中で何かをつまむように指を動かすと、そこから十円玉が現れる。
「ママ」タクトはマコトの手に視線を奪われたまま、アスカの袖をきゅうっと
つかんだ。「あの人、お手々から、お金が出てきたよ。すごいね」
家に帰ったら、絶対に手品の練習をしようとアスカは決めた。
「続きまして〜。コインがコップの中に瞬間移動しま〜す」
マコトは透明な使い捨てコップを右手に持ち、十円玉を左手の上に置くと、
それをコップの底でコツコツ叩く。三回目に叩いたとき、十円玉はガラスのコップ
に移動している。
小さな手でぱちぱちとタクトは拍手する。完全に心を奪われているようだ。
「じゃ、次はもっとスケールの大きな手品やります」
「なあにー。ホワイトタイガー?」とミサトが茶々を入れる。
「そこまで大掛かりじゃなくて、金額がってことで」
苦笑いしたマコトがポケットから出したのは千円札だが、これを一同に見せる
と、手の中でくるくると折り曲げはじめた。ゆっくりと広げていくと、一万円札
に変わっている。
基本的な手品かもしれないが、酔客を喜ばせるには十分だ。
「あの人、お金を変えたよ。ママ。千円が一万円になった」
お金の単位と時計の針から時刻が読めるくらい賢いタクトは、興奮して体を
揺らす。
さすが、アタシの子。と、アスカは大満足だ。タクトは賢いから、アタシより
この子に手品の練習をさせた方が、凄いことになるかもしれない、と彼女は
親バカなアイディアが浮かんだ。
そうこうしているうちに、隣の花見客から、咳払いが一つ。
聞こえたのはシンジだけなのか、ネルフのメンバーは誰も気にした様子がない。
いいのかな、とシンジがハラハラしていると、咳払いの主は立ちあがった。
それは年配の男だった。定年間近だろうか。短く刈った白髪に手をやっている。
反対の手には黒い手帳があって、それを自分の顔の高さまで上げているところだ。
その手帳は開かれて、中の金色のバッジと身分証明のパスが見えた。
「え? なに? おまわりさん?」
そこで初めて男に気づいたマコトが、変な声を出した。なんで自分たちが警察
手帳を見せられなければならないのか、まったくわからないから仕方ないのだが。
「あー。君ね」と言って、年配の男は眉毛を人差し指の先で掻いた。「我々警察
官の前でお金偽造しちゃダメでしょ。ちょっと署まで来てくれるかな。偽札造り
の現行犯で逮捕します。おい」
年配の男性が声をかけると、大柄な男が二人、マコトの両側に立った。
現状が認識できず、「え? え?」と慌てているマコトの腕を取ると、二人の
男は彼を引きずるように連行していく。
「なになに〜。これも余興の一環かしら〜」とミサトがのんきな声を出し、ビー
ルをぐびぐびと飲んだ。「つうか、日向くん!? なんでいきなり偽札なんて作
ったのよ」
『偽札?』 とミサトは首をかしげた。自分でも何故そんなことを言ったのか不
思議に感じたようだ。
「えーと、おまわりさん違うんです。彼は職務に忠実で、大変マジメな男です。
たぶん、彼は魔が差しただけだと思います」
ミサトは褒めているようで、男性としてはまったく意識してないのが明白な、
弁解の言葉を口にした。
年配の男はネルフの一行を見回して、途方にくれたという顔になる。目覚めた
ら海に浮かぶ小船の上で、見えるものは、ぐるり三百六十度、空と海と水平線だ
けだった時にする表情だ。花見に参加しているネルフ職員の数は、かなりの数
になる。
全員を事情聴取ってわけにはいかないよな、と年配の男はつぶやいた。
「じゃあね、責任者の方、どなたですか? 今日のところは、その方も一緒に署
まで来てお話をきかせてもらいたいんですけどね」
「はい」と高らかに声を上げたのはミサトだった。
「え!? ちょっとミサトさん?」
驚いたシンジを尻目に、ミサトは碇ゲンドウと冬月コウゾウのいるあたりを指
差した。
「あの人です!」
指をさされた碇ゲンドウは動じなかった。
『凄いな父さんは、こんな時でも動じないんだ』とシンジは感心したが、そうでは
なかった。
「冬月先生、後を頼みます」無表情の碇ゲンドウは、狼狽する様子もなく、口だ
け動かした。
「おお。任せておけ」
「おまわりさん、この人です」碇ゲンドウは、冬月コウゾウを指さした。「この
人が責任者です」
あまりのことに、口を開けたり閉じたりしている冬月をよそに、ゲンドウは立
ち上がった。
「さあ、みんな。あとは冬月先生に任せて、われわれは解散しよう」
みんなやれやれという風情で、片づけをはじめる。
シンジはカヲルの隣に移動すると、肩と肩が触れ合わんばかりの距離で、小さ
く言った。
「カヲルくん、なんかやったね?」
「おや、わかるかい?」
渚カヲルは何故か嬉しそうに笑った。
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碇タクトは幼いながらも、時計を見て、今の時間が何時かわかる。
デジタル時計ならすぐだし、アナログ時計でも長針と短針の位置をしっかりと
見れば、時間がわかるようになっていた。
カヲルが家に帰ろうか、というので、ミライをおんぶしたシンジと、タクトが
手を繋ぎ、タクトの反対の手をアスカが繋いでいる。
その後ろを静かに歩くのはレイで、その横をカヲルが歩いている。
帰り道、時計の針は午後五時半だが、めっきりと日が長くなっている。ほんの
一ヶ月前までは五時を過ぎれば、外は真っ暗だったことに比べれば、大きな差だ。
「今日は、夜になるのがおそいね〜」
タクトは両親と手をつないでご機嫌で、シンジとアスカの間でスキップし、歌
うように言った。
「そうねー。すっかり明るくなったもんだわね」とアスカがこちらも上機嫌で返
す。
少し前までは、こんな家族のワンシーンがあると、幸せすぎて感極まったシン
ジが泣き、それをアスカが抱きしめてあやしたり、または嬉しくて泪が止まらない
アスカの肩をシンジが抱き寄せたりしていたものだ。
最近は、もちろん幸せだったり嬉しかったりするのだが、子供が毎日成長する
ように、シンジとアスカも親として成長しているようで、泪が溢れるには多少の
余裕ができるようになった。親というのは強くなるものなのだ。
「きっと今日は、一時間くらい、今日が終わるのおそくなったんじゃないかな〜」
とタクトが跳ねながら言った。
子供のいうことは多少突飛なことがある。アスカはそうしたことにも、しみじ
みとした幸せを感じている。
「そうかもしれないわね〜」
タクトの前なので、明るい口調を崩さなかったが、内心ではちょっとした心配
が小さなさざ波を起こしている。シンジの真剣な顔、綾波レイと渚カヲルが当た
り前のように碇家の帰路にくっついてきているこの現状。
マコトはどうやったのかわからないが、千円札を一万円札に変えてしまったの
もわからない。あんなマジメな人が偽札を作るなんて。
なんだか変なことになってるわね。
アスカは心の中でつぶやいた。
■■■ ■■■ ■■■
「で? 今回は何をやったの?」
碇家のキッチンでテーブルについたシンジが真剣な顔つきでいる。
『やるときはやる』ときの顔だ。
シンジの正面に座るカヲルはというと、済ました顔でシンジが入れた緑茶を飲
んでいる。その隣に座るレイはコーヒーの入ったマグカップを両手で包んでいる
ところだ。カップを見つめる彼女の眼差しは、一国の行方を占うために水晶玉を
覗く巫女のように厳かで真剣で、何か冗談の入り込む余地はない。
それにしても、食べ物飲み物に関しては、かみ合わない二人ね、とアスカは思
った。
「今日はエイプリルフールなんだってね」唐突にカヲルが答える。
「そうだけど?」
何を言い出すのかと、シンジが慎重に答えた。確かに今日は四月一日だが、そ
れがなんだというのだろうか。
「エイプリルフールは嘘をついてもいい日なんだって?」
「そうだね」
「僕はそういうの嫌いだな」この世に何が起きても慌てないだろうカヲルが、落
ち着いた口調で言った。
「カヲルくん、君が何を云っているのか、わかんないよ」
シンジの言葉で、懐かしむように目を閉じたまま、カヲルはうなずく。
「正確には、昨日からなんだけどね。リリンは嘘をつきすぎるんだ。だから、実
行させてもらうことにしたよ。神ならぬ身ではあれど、僕らにもこのくらいはで
きる」
シンジとアスカには何も言いようが無い。カヲル自身が誰からの返事も期待し
ていなかったようで、アスカの膝の上で静かにしていたタクトに声をかけた。
「タクトくん。聞いてくれないか」
言われたタクトはアスカの顔を見上げた。彼女は自分の頬のあたりに、シンジ
の視線を感じ取る。まあ、彼がこっちを見る理由もわかっているつもりだ。自分
はそんなに好きでない相手だとしても、カヲルはシンジの友人だ。仕方なくうな
ずいた。「聞いてあげたら」
碇タクトが、こっくりうなずくのを待って、カヲルは口を開いた。
「リリンはもっと誠実であるべきだと思うんだよ。ジョークはいいよね。でも嘘
はダメだと思うんだ。エイプリルフールだからって、嘘をついてもいいなんて
おかしいと思わないかい。昔のことだけど、アダムがいるからって言われて
行ってみたら、リリスだったことがあるんだけどね。あれには意気消沈した
ものさ」
「いきしょうちん?」
アスカの腕に小さな手をあてたまま、タクトはカヲルの言葉を繰返した。当た
り前のことだが、タクトはカヲルの言っていることを半分も理解していない。
「ガッカリした、ってことさ。頑張ったのに、嘘だったんだ。その時のボクの気持ち、
タクトくんなら、わかってくれるよね?」
小さく口を開け、カヲルの顔をしばし見上げていたタクトだが、
「カヲルくん、かわいそう」
そう言うと、体をひねって、アスカの首にしがみついた。
「タクトは優しいわね。でも、わかんなくってもいいのよ。そんなこと」
アスカはタクトの背中を撫で、横にいるシンジの肩に自分の脳天を何度もぐり
ぐりと押し付けた。
「なになに。どうしたの」
「アタシもタクトにかわいそうって言われたい〜」
「アスカ、今、そんなこと言ってる場合じゃないだろ」と言いつつも、シンジは
そこはかとなく嬉しい。
「それで、カヲルくんは何をしたの?」
おそるおそるとシンジは訊いた。あまり知りたくない話だろうが、訊くしかな
い。
「昨日から、タクトくんの言ったことは、全部本当になるよ」
アルカイックスマイルのカヲルは、悪びれる素振りもなく言った。
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タクトが寝ていて良かったとアスカは言った。いつもなら午後一時から午後
三時にかけて、タクトは昼寝の時間であるのだが、今日はお花見があったので、
昼寝をしていない。
それで今しがたグズりだしたと思ったら、数秒後にはアスカの胸に顔を押し
付けて寝てしまった。リビングにある二段ベッドの、上のベッドにタクトを転がし
ておく。下のベッドにはすでにミライを寝かせているので。
こんな夕方に寝ちゃったら、夜になっても目がキンキラしちゃって、そうそう
寝ないわね。
アスカは今晩の寝かしつける手間を考えると、少しげっそりとする。
それは我が子への愛情とは別物なのだ。
それでも、シンジが激昂している様をタクトに見せないで済んだ分、良かった
と言えるだろうか。
滅多なことでは怒らないシンジだが、たまに『前歯全部折ってやる』ロボが発
進してしまう時がある。
タクトの言ったことが全部本当になるというのは、本当にその通りだろう。
昨晩、タクトがレイとカヲルが『このおうちに住めばいい』と言った。それを
アスカは覚えている。それで今朝、起きたらレイとカヲルがこの家にいたわけだ。
リビングが狭いのも当然だ。最初は寝袋だったのに、タクトが二段ベッドと
言ったら、リビングにベッドが置いてあるのだ。
それで日向さんも逮捕されたわけね〜。タクトが千円が一万円になったと
言ったから、この世界では日向さんが偽札造りの犯人になったわけで。
そういう面倒くさいことに、なんでタクトが巻き込まれるのか。それをシンジ
は怒っている。
アスカだって怒らなくもないが、先に他の人間が怒り出すと、不思議と冷静に
なるものだ。
「カヲルくん! タクトを元に戻せよ! じゃないと前歯全部……」
「僕も悪気があったわけじゃないんだ。まさかキミが怒るとは思わなくてね。
むしろタクトくんが言ったことが全部本当になったら皆が嬉しいかなと思ってさ」
「悪いと思ってるなら、さっさと元に戻してよ。じゃないと、僕はキミのことを
嫌いになる」
「わかった」そこで初めてカヲルは、ことの重大さに気づいたようだ。「わかっ
たけど、戻せないんだ」
シンジが拳を握り締めたので、さすがのアスカも危機を感じた。
怒りに我を忘れてカヲルを殴ったら、あとでシンジが許せなくなるのは彼自身
になるはずだ。アスカとしては、そんなことになって欲しくなかった。
「シンジ」彼の背後から、そっと彼の手首を握る。「そんなことしたら、アンタが
傷つくし、アタシも傷つく。子供たちだって悲しむわよ」
カヲルは更なる説明の必要性を感じたようだ。
「言い方が悪かったよ。四月一日だけなんだ。四月一日が終わるまでは、タクト
くんが言ったことは全部本当になる。それは無かったことにできないけど、日付
が変わって四月二日になったら、元に戻るよ。それ以上早くには、ごめん。僕で
も戻せないんだ」
カヲルの落ち込みようは相当なもので、アスカですらうっかり同情しそうにな
るほどだった。
タクトがベッドの上でムニャムニャ言っていたかと思うと、はっきりとした寝言
を言った。「ママは超美人のお姫様なの」
なんだかお腹の辺りが苦しくなって、視線を下げたアスカは、自分がピンクの
ドレスを着ていることに気づく。あー。こういうフリフリのドレスって、コルセットで
ウエスト締め付けてるもんね。
服装が変わるくらいなら、許容範囲である。多少、コルセットによる息苦しさは
あるにしても。
顔を上げるとシンジが信じられないものを見たというような、驚いた顔で彼女
を見ている。「アス、カ……?」
何を疑問形で言っているのだと、アスカは食器棚のガラスに映った自分を見た。
そこにはピンクのドレスを着た自分が映っている。それはいい。
顔がミスユニバースだ。
確かに綺麗なのだろうが、彫りが深すぎる。セカンドインパクト前に流行った
という3Dポリゴンゲームのキャラのようだ。
「トゥームライダーのララ・クロフトみたーい! って、これアタシ!?」
アスカは、二段ベッドの上で眠るタクトを揺すって起こした。
「ちょっと、タクト。起きて、そんでママの顔、戻して戻して」
起こされたタクトは、最初に目にしたものが、いつもの天井と違うので、驚い
て泣き出した。
「超美人のお姫様なんだから、アタシがそのまんまお姫様になるだけでいいのに」
アスカの不平はもっともだ。以前にタクトはミスユニバースをテレビで見ている。
その女性が身に着けていたロングドレスと額のティアラが、お姫様のイメージとして
タクトの記憶に残ったのだろう。
『彼が言ったこと』と、『本当になること』は、ズレがあるようだ。
アスカは子供を抱きあげたが、「お姉ちゃん、だれ〜? ママは〜?」とタクトは
泣き止まない。
「もう、ホントだったら泣きたいのはママの方だわよ」
こういう時に、シンジは頼りになる。アスカからタクトを受け取ると、囁いた。
「大丈夫だよ。ママはいつものママだよ、って言えば、ママが来るから」
それで元に戻れたのはいいが、アスカは軽い嫉妬をシンジに向ける。それが理
不尽なのはわかっているが。
■■■ ■■■ ■■■
日付が変わるまであと数時間。その数時間さえ持ちこたえればいいはずなのに、
とにかく大変だった。
夕飯時、いただきます、とタクトが言う。
さらに「ぼくは、ごはんを食べて大きくなるよ」と続けた。
しまった。いきなり年が年齢が上がるのかな。とシンジは予想するのだが、
ご飯を食べるごとにタクトはサイズが大きくなっていく。
途中から、アスカ、綾波、カヲルの姿が見えなくなり、最終的にキッチンいっ
ぱいにタクトは巨大化した。たぶん八メートルはある。
電話ボックスの中に何人が入れるかのギネスに挑戦している人のような姿勢で、
シンジはタクトをぽんぽんと叩いてなだめる。
「うん。タクト。泣かないで。元に戻れるから」
そういえば、他の皆は大丈夫だろうか。
「アスカ〜」
妻の名前を呼ぶと、くぐもった声が聞こえた。
「ここよ〜。タクトのズボンのポッケに入り込んじゃったみたい〜」
巨大なズボンのポケットからアスカを引っ張り出す。
「綾波〜」と呼びながら、ジャイアントタクトの脇に挟まれたカヲルを発見し、
救出する。
「たぶん私は、反対側のポケットにいるから」とレイの声が聞こえる。
なんとか彼女も引っ張り出し、タクトを元に戻す。
その後も、夕方に昼寝したせいで、全然眠くならないタクトの言葉に、四人は
文字通り、散々振り回された。
ようやく日付が変わる頃、残り十秒をカウントダウンして待ち構える気力も彼
らには無く、ただただ息を潜めて待った。
時計が0時00分になったところで、深々とシンジは息を吐く。
「カヲルくん、わかってくれた? 嘘は確かに良くないけど、言ったことが常に
真実になると、こんなに困るんだよ。特にタクトみたいに小さい子はね」
「そうだね。これなら普通のエイプリルフールで良かったかな」
「正直であることと、言ったことが真実になることは、別だからね」
「そのようだね」言い終えたカヲルは、椅子から半分ずり落ちた。
これでカヲルくんもわかってくれたろう、とシンジは考えたが、これ以降も
渚カヲルはトラブルメイカーとして何度も碇家の人々を振り回すことになる。
■■■ ■■■ ■■■
さすがに寝かしつけないと、明日もまたタクトが夜更かししかねない。
タクトの手を引いて、寝室に向かうアスカは何気なく本棚に並ぶ絵本の背表紙
を見た。
『100万回生きた猫』という文字が読めた。
彼女が気になる絵本の一つだ。初めて読み終わったとき、彼女はしばらく口を
開くことができなかった。タクトはあまり気に入っていないようだ。最後に猫が
死ぬからかもしれない。
何気なく、アスカはシンジに言った。
「百万回のどうでもいい人生より、たった一回だけでも好きな人と過ごす人生の
が大切なのはわかるけど、二度と生き返らないって凄いわよね。アタシだったら、
もう一回くらい生き返りたいな〜」
アスカはチラチラと夫の顔を見た。その視線に気づいたシンジは少し考えて、
彼女が期待している言葉を口にする。それは彼の本心でもあるので何の問題も
ない。
「もし生まれ変わったとしても、僕はまた、君と一緒にいたいな」とシンジは言う。
「アスカが鳥になるなら、僕も鳥になって一緒に飛ぶよ。アスカが魚になる
なら、僕も魚になる。花になるか虫になるかもわからないけど、アスカと同じの
に生まれたいな」
言い方がおかしくてアスカはくつくつと笑ってしまう。
「なんだよ。アスカが言うから、僕も自分の気持ちを言ったのにさ〜」
「ごめんごめん。でもさ」アスカは夫と子供の顔を順番に見た。「どうせなら、
また人がいいわよね」そう言って、アスカはシンジにしなだれかかった。
うんうんとうなずくシンジの足元で、タクトがアスカを見上げる。顔つきは幼い
わりに真剣だ。
「パパとママが生まれ変わっても、またボクとミライのパパとママになってね」
そんな可愛いことをいわれたら、母親は感情の高ぶりが抑えられないものだ。
アスカは抱きあげたタクトに、自分の顔をあらゆるところを押し付ける。
「あ、ここにいたのか」廊下からカヲルが現れた。「お取り込み中、申し訳ない
けどね。ここらで僕らは、おいとまするよ」
そこでカヲルは一拍間をあけ、肩をすくめた。「帰るってことさ」
時計はとっくに零時を過ぎている。泊まるのでなければ、客人は帰るべき
時間だ。
アスカに抱き上げられていたタクトが、銀髪の青年に向かって小さく手を振っ
た。
「カヲルくん、また来てね。気をつけてね。まだ夜は寒いから。もうすぐ春が来て。
そしたら暖かくなるんだよ」
最近になって得た知識を、タクトが得意げに披露する。
「それだったら、僕に任せてほしいな。タクトくん知ってる? 春になって暖かく
なるのはね、僕とレイが冬を溶かすからなんだよ。レイがサイドカーに乗ってさ、
僕がその側車に乗るんだ。そのまま凄い勢いで空を飛ぶと、レイが側車を切り
離すよ。そのまま僕の乗った側車はロケットみたいな勢いでね。春をせき止めて
いる冬空で春の邪魔をしている氷の壁を割るんだ。バリーンってね」と言う。
バリーンと手まねで割る仕種をするカヲルを前にして、タクトは驚いて目と口
を大きく開け、父親を見た。
「パパ。本当に?」
聞かれたシンジは少し悩んで、カヲルの冗談だと教えるべきか迷った。それに
してもカヲルは日付が変わった安心感からか、いつものようにタクトをかまって
いる。それを嘘というには罪は軽いかもしれないが、タクトが彼の言葉を本気に
すると困る。
今度、やんわりと釘をさしておこうとシンジは決めた。
その間に、幼いタクトは自分なりに解釈したようだ。
「すごいや。カヲルくんがレイちゃんのサイドカーでロケットみたいになって、
お空の氷を割ると、春が来るんだね」
エグゾーストノイズが外で響き渡る。
こんな夜中に何事かと、ベランダを見れば、ベランダに青いサイドカーが止まっ
ている。またがっているのはレイで、大昔の空軍パイロットのようなヘルメットを
かぶり、ゴーグルをつけている。
どうやってベランダまで上がったのよ、とアスカは心の中で突っ込んだ。
返事は期待していない。もう夜は遅いし、今日はこれ以上余計なことに巻き込
まれたくないだけだ。
レイはゴーグルをはずすと、カヲルを呼んだ。
「カヲル。急いで乗って」
カヲルはわけもわからずサイドカーの脇の側車に乗り込んだ。
「これでいいのかな?」
その問いかけを無視したレイがアクセルを吹かすと、サイドカーは空へと飛び
上がる。
そんなバカな、とシンジとアスカはベランダに出て、空を見上げた。青いサイド
カーは、ぐんぐんと上昇していく。二人が見ているとところからだと、それは月に
届きそうだ。
東の夜空に白くて巨大な壁が、空を覆わんばかりに浮かんでいる。その壁は
月に照らされ、ほのかに黄色く光を発している。
「あれ? もう四月二日になったはずだよね?」とシンジが疑問を口にした。
なのになんでタクトが云ったことが本当になるのか。
「カヲルくんすごーい!」と、アスカに抱えられたままのタクトが歓声を上げた。
小さな拳を突き上げて、万歳のようなポーズをとる。
「あっ。そうか」とアスカは何か閃いて、一人うなずく。「そういうことね」
「なになに?」とシンジが訊く。
「夕方、お花見から帰ってくる最中に、タクトが『今日は、一時間くらい、今日
が終わるのおそくなったんじゃないかな』って言ってたの、覚えてる?」
「そういえば……」
「タクトが言ったことが本当になるのは、四月一日だけってのは変わらないのよ。
だけど、一日が終わるのは一時間遅くなったってわけよね」
ということは、四月一日はまだ終わっていないということだ。時計が午前一時
を表示するまでは。
「それで綾波とカヲルくんは空に飛んでったのか……」
空を飛ぶ青いサイドカーの側車が光ると、点火したロケットのようにサイドカ
ーから切り離され、空に浮かぶ氷で出来た冬の壁に飛んでゆく。
カヲルの乗る側車が冬の壁を粉砕したとき、シンジが想像していたのより、割
れる音は小さかった。氷の結晶はチカチカと瞬き風に飛ばされる。その風がシン
ジには、さっきまでより少し暖かく感じられたが、気のせいだと思うことにした。
「もうすぐ春なのね〜」とアスカが言って、腕の中のタクトを見ると、いつの間にか
寝ている。
春になったとはいえ、今頃の風は油断すると、まだ冷たさの芯が残っている。
小さなあぶくがはじけるようなくしゃみを、眠るタクトが一つした。あわててシンジ
とアスカはベランダから家の中に飛び込んだ。
タクトがすんなりと寝てくれたのはアスカとしてはありがたい。だが彼に本を
読み聞かせる時間が今日は無くなってしまい、それが彼女は少し残念だ。
(了)