夢を見ることで、わたしたちだれもが毎晩、
   静かにつつがなく狂うことが許される。
   
   ウィリアム・デメント



「たっだいま〜」

 帰宅したアスカは勢いよくリビングのドアを開けたが、返事がない。

 時刻は二十二時。

 絞られているため、うっすらとリビングを橙色に染める照明だけが、彼女を迎え
入れてくれる。

「シンジはお風呂かしら?」

 独り言のようにそう言ってみるが、それはあり得ないことを彼女自身が知ってい
る。

 シンジはいつも、アスカが帰宅するまで風呂に入らない。それはタクトの面倒を
見る人間がいなくなるためでもあるし、それともう一つ。

『ただいまって帰ってきたとき、返事が無かったら寂しいもんだよね』

 と、シンジは言うのだ。その言葉を思い出すたびに、アスカの顔はにやけてしま
う。

 リビングのソファにバッグを放り投げる。いつもそれをシンジに注意されている
のだが、今はその彼がいないのだから気にしない。

 ダイニングに向かうと、テーブルの上には伏せられたお茶碗とお椀。ラップされ
た皿があるが、シンジからアスカへのメモがどこにもない。

「ということは……」

 ワクワクしつつ、アスカは寝室に向かった。 

 音を立てないようにそっとドアを開け、中をのぞき込む。

 廊下の照明が、開いたドアの隙間の分だけ寝室に射しこみ、光の三角形をおぼ
ろげに映し出す。その先、ベッドの上には二つのシルエットが見えた。

「ぷっ」とアスカは吹き出した。「やっぱり」

 シンジとタクトが寝ていた。同じ寝相で。

 忍び足でベッドに近づいたアスカは、寝ている二人を息を潜めて見下ろす。

 小さく口を開けたまま寝ている父と子は、二人揃って体の右側を下にして横向き
に寝ている。右腕は正面に伸ばしているところも、左腕が肘を曲げているところも
全く同じポーズである。

 やっぱ親子ね、と心の中だけでアスカは思う。

 シンジが寝るとき用のTシャツと短パンでないところを見ると、タクトを寝かし
つけている間に自分も寝てしまったのだろう。

 アスカとしてはおかえりと言ってもらえないのは寂しいが、こうして父と子の寝
相が同じところを見るのは楽しいのでよしとする。

 そこからは時間との戦争だ。服を脱いでメイクを落として風呂に入ったら髪を乾
かし夕飯を食べたら念入りに歯を磨く。

 後はパジャマに着替えれば準備は万端。

「さって寝ますか。か・わ・の・字・で〜♪」

 ひそめた声で歌うアスカは、スキップしたいようなウキウキとした表情で、再び
寝室に現れた。ベッドの傍らに立った彼女は、両手を腰にあて、じいっと寝床を凝
視する。

 眠る二人はまだ寝返りをうっていないようで、先ほどと同じく相似関係を崩して
いない。

 マットの一点に体重をかけないよう、そっと、シンジとタクトの間に滑り込む。

 そのあとアスカは、タクトの頭の匂いをかいだり彼のぷっくりとしたほっぺに自分
の頬をあててみたりタクトの腕に体重をかけないように自分の頭をのせてみたり
首と肩の付け根のあたりの柔らかい部分を指でつまんでぷにぷに感を堪能しなん
だか嬉しくってクスクス笑ったりそれでタクトがもぐもぐと口を動かすので慌てて指
をはなしたり寝ながらタクトが頭をかくので代わりに優しく掻いてやったりそういえ
ば寝相が同じってことは頭を掻くタイミングも同じだったりするのかしらとシンジに
振り返ってみれば赤ん坊の小さい顔を見慣れた状態で大人のシンジの顔がやけ
に大きく見え「でかっ」と声を出してしまったり「たっきゅん、ママのこと忘れないでね」
と囁いて赤ん坊がニヤーリとするのをまじまじと眺めたりした。

 大満足したアスカは今度こそ寝ることにする。

 シンジの右腕を動かし、枕とベッドによってできる隙間に押し込んだ。これで
アスカが枕に頭を乗せるとシンジに腕枕された状態になる。この方式の良いとこ
ろは、枕でアスカの頭が支えられる分、シンジの腕への圧迫がかなり軽減される
ので、次の朝起きたらシンジの腕が動かない、というアクシデントが無い。

 もちろん、枕はある程度の高さとクッション性が重要である。

 そう言えばシンジって歯、磨いたのかしら。ま、いっか。一日くらい、死ぬわけ
じゃないし。

 そこまで考えたアスカの意識は、

 とぷり、

と水面から水中に潜るように、眠りへ沈み込んだ。

 もしくは、夢の中へ。



「シンプルライフ」碇ファミリー 夢の大冒険?



赤ん坊の「はいはい」とは早いものだ。

知らない者からすれば、その早さは、

はい、はい。はい、はい。

その程度のテンポを想像するだろう。

しかし、それは間違いだ。

実際は、

はいはいはいはい。はいはいはいはい。

くらいの速度である。

これが運動神経抜群のアスカを母に持ち、まれに暴走傾向に走るシンジを父に
持つ赤ん坊であると、

ははははははははい。ははははははははい。

というスピードになる。

これを「はははいハイスピード」と命名する。

さて、今日も碇家の寝室にて、水色のベビー服に身を包み「はははいハイスピード」
で我が道を進む碇タクト。

彼の思考は音声として言語化されてはいないが、だからと言って、思考自体が存在
しないわけではない。

その証拠に、そのさまを見守るシンジの視界の右端、そこに映画のような白い文字
の字幕が縦書きで現れるのだ。

そこにはこう書いてある。

 今日はシンジ、いそがしいんだよ〜。
 だからボクは一人でおもしろいこと、
 みつけるんだ〜。

そこで、碇シンジは気づく。

あ、これは夢だなと。

彼はどんなに家事が忙しくとも、タクトを一人で遊ばせておくことはないし、考えられ
ない。おんぶ紐も抱っこ用のおくるみも持っているのだ。家事によって使い分ける
ほど彼の育児は細やかである。

なのにタクトは一人でいるし、タクトの思考は字幕スーパーで現れる。これが夢で
なければなんだというのだ。

これが夢の中で夢って気づくってやつかと、シンジは考えた。人からそうした話を
聞いたことはあるが、自分がそうなるのは初めてだ。 

そうとわかれば、それはそれで楽しめる。明日、起きたらアスカにこの話をしてみ
ようと思った。

寝ている時でさえ、僕はタクトのこと考えてるんだな、と苦笑いをしながら。

夢とはいえ、タクトにすれば、ははははははははい、すること自体がおもしろくて
しょうがないようだ。

うふふ、とか、うきゃ、と一人で笑っている。

部屋の隅で、ぽさり、と音がした。

タクトはそちらに顔を向ける。

 なにかあるのかな?

そう考えているらしい。なぜわかるかと言えば、相変わらずシンジの視界の右端に
浮かぶ字幕スーパーに書いてあるからだ。

タクトが顔を向けた先には、おさるのぬいぐるみが床に落ちている。体は茶色、小
さな瞳と大きく開けた口をしていた。彼は知らないが、そのおさるは彼の母が幼かっ
た頃の友人である。

 なに〜。なになになに〜。

ははははははははい、と近づく。こんなものを見るのは初めてなので、嬉しくって
小さい口を開けて笑ってしまう。喜びに輝く彼の黒い瞳に、星が流れる。

よだれが口の端からこぼれそうになるが、表面張力がそれを阻止する。

初めて見たおさるのぬいぐるみに、タクトは顔を近づけた。よく見ればおさるの右
手はもげ、体の横に落ちていた。

 だれ〜? きみ、だれだれだれ〜?

おさるは声を発する器官がないので、空気を振動させて意志を伝えることはできな
いが、返事の台詞がやはり字幕スーパーで浮かぶ。

これ、ほんとに便利だな、とシンジは思う。

おさるはタクトにこう言った。

 あたし、おさる。
 布と綿とオスの体だけど、魂は女。
 みたいな

それに対するタクトの台詞はこうだ。

 ふ〜ん。
 おさるさんは、プーマのくーさんとは違うね〜。
 シマシマないもんね 

会話がかみ合っていないが、タクトにオカマというカテゴリーを理解するには、人生
の経験値がまだまだ足りない。

ちなみにプーマのくーさんは、アスカがタクトに買ってきたあぶちゃん(よだれかけ)
にプリントされたキャラクターで、黄色い体に黒の縞、青いズボンを履いた尻がデカ
いので、足が遅いという設定のプーマだ。

それはそれとして、タクトは右手をおさるの肩をむんずとつかむ。これで彼は距離
感を養っている。手が届く距離なら、腕を曲げて対象を引き寄せるか、対象に顔を
近づければかじることができると学んでいる。

 まあ、いいや。
 よくわかんないけど、かじればわかるよね。
 食べられるか食べられないか。

歯が生えかけのタクトは、口の中がぞわぞわしていると感じている。シンジやアス
カにかまわれている時は気にならないが、一人でいる時など、どうしてよいかわか
らない感覚で、きーっとなる。

それを紛らわせるためにも、何かを噛むことが、彼には必要なのだ。

くりくりした黒い瞳でおさるを見つめ、タクトはどこをかじろうか検分する。よつ
んばいの自分の姿勢からして、位置的に彼女の頬あたりがちょうど良い。

さっそくおさるのぬいぐるみの顔に向けて口を開け、ゆっくりと近づける。

おさるの悲鳴に似た叫びが、字幕スーパーで浮かぶ。ところで、そろそろ面倒なの
で、一文字下がった文章は、字幕スーパーだと考えていただきたい。

 やめて!
 みたいな。
 あたし汚れてるから、いろんな意味で!
 みたいな

しかし、タクトは気にしない。

 だいじょぶ。どうせこの世は汚れてんだから

 なに、さらっと黒いこと言ってんの!?

おさるの抗議を意に介さず、彼女の頬に噛みつこうとしたところで、

『タクト! それバッチいから食べちゃダメ!』

とアスカの声が寝室の天井に響きわたる。

まだこれが夢だって気づいてないんだな、アスカは。

と、シンジは一人でくすりと笑うが、今の状況が不可思議なことになっているのに
は、まだ気づいていない。

タクトは母親の声が聞こえなかったのか、開いた口をぬいぐるみに近づける。

またまたどこかで、ぽさりと音がする。

 ん?

そこでタクトはかじろうとするのを一旦やめ、首をもたげる。

押し入れから音がしたようだ。

 なんかこの中で音がしたした〜。

すっかりおさるから興味の先が押し入れに向いた状態だ。

ははははい、とタクトは押し入れの前まで高速移動する。押し入れのふすまを、も
みじのような小さな右手で、とんとん叩いてみるが開かない。

それで頭を押しつける。
 
 こういう時は、頭を使うといいんだよ。
 アスカもシンジによく言ってるもんね。
 「もっと頭を使いなさいよ」って。
 ひらけ、ひらけ、ひらけ〜。

タクトは押し入れのふすまに頭を何度も押しつける。

しかし、一向に開く気配がない。中から何かの気配はするのだが。

 なんで押し入れが開かないのかな〜。
 なにがいけないのかな〜。

頭で開けようとするのを中断し、タクトは押し入れを見上げる。

見ていると、ひとりでに押し入れが、すーっと開いた。

 あいた〜。あいたよ〜。

押し入れの中は真ん中で水平に区切られていて、上の空間と下の空間があるのだ
が、その下の段に白い掛け布団が折りたたまれて収納されている。

その布団に、綾波レイがはさまっていた。何かの具のように。

折りたたまれた布団の隙間から顔を出した綾波の、紅い瞳がタクトを見つめる。

『こわ!』とアスカの声が響くが、タクトも綾波も気づいた様子がない。

目があったタクトが、うふふと笑った。

 あやなみちゃんだ〜。
 なにやってるの楽しい?
 楽しいの、それ?

「……かしわもち」綾波が声をだす。

 かしわもちってなに〜。
 それは食べられる〜?

「来月の宴会で見せる予定の出し物の練習」

 たまたまなのか、心が通じたのか、二人の会話は微妙にかみ合っている。

 しらない言葉ばっかだね。
 ボクにはさっぱりわからないや〜。

「それはそうと、おさるさんの右手、取れてるわね」

するりと布団から綾波は出る。その場でかがみ込んだ彼女は、はいはいの体勢でい
るタクトの両脇に手をさし込み、抱き上げた。

 だっこだ〜。
 だっこだね。

両手を指揮者のように振り回して喜ぶタクトを、綾波はしっかりと抱きかかえなが
ら、床に転がるおさるの右手を拾う。

赤ん坊は綾波とおさるの右手を交互に見た。赤ん坊というものは人と目が合うだけ
で喜ぶもので、今も振り回す小さな拳が、空中に円を描いている。

 あやなみちゃん。
 それ、おさるさんの手。
 食べられるかは、まだわからないの。

「碇くんに直してもらいましょう。きっとアスカはこういうの苦手だから」

『ぬわんですって〜』アスカの声がするが、タクトと綾波はそれに気づかないし、
会話が噛み合わなくなってきていることにも気づかない。

アスカはというと、これが夢だということに気づいていない。

寝室から綾波は出ていく。

光景は変わらないまま、シンジの声だけ聞こえてきた。

「碇くん」

「あれ? 綾波?」

シンジの視点では見えない位置で、綾波とシンジが会話している。

ちょっと待って。

とシンジは思う。僕の見てる夢なのに、なんで僕が別にいるの?

もちろん、夢の中の綾波は眠るシンジの疑問に答えることはない。

「このおさるさんのぬいぐるみ、手が取れているの。つけてあげて」

「いいよ。ところで綾波、タクトと会話噛み合ってないよね」

「っ!!」

言葉にならない綾波の驚く声が、シンジの耳に届いた。

そこまででシンジに見える世界は一瞬にして暗闇に溶け、何も見えなくなる。


   ■■■ ■■■ ■■■


「は!?」

そこでシンジはとび起きた。腹にかけていたタオルケットをはねとばす。

目覚めたそこは二人の寝室で、何時かわからないが薄暗い。枕元の目覚まし時計
が時を刻む音だけが聞こえる。

隣では同じようにアスカが身を起こしているところだった。

いつの間にアスカ帰ってきたんだろ、とシンジは一瞬考えた。

だが、声に出たのは違う言葉だ。

「夢?」

二人は顔を見合わせたあと、そろってため息をついたが、息を吐ききると同時に、
再び顔を見合わせる。

「タクト!」とアスカが言えば、シンジも「タクト!」と返す。

二人でタクトタクトと叫びながら、寝室から飛び出し、隣の部屋に駆け込んだ。

部屋の中は閑散としている。タクトどころかベビーベッドが無い。そこに刻まれた
時間の痕跡自体が失われていた。部屋自体が記憶喪失にでもかかったかのように。

「アスカ、いないよ!」

「レイが連れてったに違いないわ! いくらタクトが可愛いからって、あんちくしょう!」

アスカは慌しく寝室に戻ると押し入れをあけ、下の段で折りたたまれた布団に手を
突っ込んだ。そこはまだなま暖かいままで、彼女はちっと舌を打つ。

「まだ布団が暖かい! まだ近くにいるはず。探すわよ! 勝手に人の家に入るわ、
布団に潜り込むわ! タクトまで!! どうしてくれようかしら」とアスカは憤っている。

さっそく彼女はパジャマを脱ぎ、動きやすい服に着替え始めた。

その様子を見ていたシンジの脳裏にまた別の疑問が沸き上がり、そのことで薄ら寒
さを感じた。そのまま、呆然と突っ立ってしまう。

アスカの背中に、シンジが声をかけた。

「ちょ、ちょっと待ってよ。アスカ!」

「なによ!」

ズボンを履きながらアスカは怒鳴った。

振り返る時間も惜しい。一刻も早くレイの魔の手からタクトを取り戻さなければ、
と焦りつつ、ズボンに足を入れているところなので、彼女の丸い尻がシンジに返事
をしているようにも見える。

「なんで綾波が押し入れの布団の中にいると思ったの?」

「なんでって、夢の中でレイの奴が押し入れに隠れてたのよ」

やっぱりか。とシンジは考えた。この状況は異常だ、とも。

「僕もその夢見たよ」

腰を曲げ、ズボンを履きかけた姿勢のまま、アスカの足が止まった。肩越しに振り
返る。

「は?」

「タクトがおさるのぬいぐるみかじろうとして、それから綾波が押し入れに隠れて
た夢だよね?」

「なんでアンタがそれを……」

「タクトにぬいぐるみはバッチいから食べちゃダメって叫んだよね? 綾波が押し
入れに入ってたときには、こわ! とも言ってた」

「…………」

無言のアスカに、シンジはさらに言った。

「なんで寝てるアスカの感想が、僕の夢でも聞こえるの」

「し、知らないわよ!」

「それとさ、思ったんだけど、僕らの寝室に押し入れなんてないよね!?」

「……あ」

気づいた瞬間、アスカの背筋に冷たいものが走る。

二人の寝室は洋間であるので、クローゼットはあるが押し入れはない。要するに、
今二人がいる寝室は間取りがおかしいのだ。

うすら寒い空気の中、二人は立ち尽くす。

互いに見つめあったり、周囲に目を配るが、それで何かが変わるわけもない。

アスカは考えた。そう言えば、アタシが帰ってきたとき、シンジとタクトはこのベッ
ドで寝てたはずよね。

そこまで思い出した彼女は、おそるおそるといった風に口を開いた。普段はなかな
か見られない表情だ。

「じゃ、じゃあ。この状況はなんなのよ」

「僕にもわからないよ」

そのとき、押し入れから声がした。若い男の声である。

「夢はいいねえ。朝方のまどろみに次ぐ、眠りにおける幸福だね」

押入に向けられた二人の視線。その先にはカヲルがいた。

開いたままの押し入れの上の段に白いシーツの布団が折りたたまれて収納されて
いる。

その布団に、カヲルがはさまっている。

折りたたまれた布団の隙間から顔を出したカヲルは微笑み、紅い瞳でシンジとアス
カを交互にみた。シンジに一度ウインクしたのをアスカは見逃さない。少しばかり
ムッとする。

黙ったままの二人に銀髪の青年は口を開く。

「パニーニ」

ぶち。

と音がした。

え? なにか切れた? とシンジが見れば、すでにアスカがカヲルの胸ぐらをつか
み、布団から引きずり出している。切れたのは彼女の理性か堪忍袋あたりだろう。

「あんたの宴会芸はどうでもいいのよ! どういうことか説明しなさいよ」

「ひどいな。この間の飲み会では僕とレイは丸まった布団に挟まってね。『のりま
き』と『ロールケーキ』ってやったら、碇司令と冬月副司令には大ウケだったのに」

「あの二人はレイとアンタがやることは、たいてい笑うでしょうが!」

「ミサトさんだって大喜びで、僕とレイに千円札をくれたよ。おひねりってことさ」

「い・い・か・ら!」

 アスカはカヲルの襟首を絞め上げる手に力をこめた。

「アンタ、なんか知ってんだったら、きりきり白状しなさいよ!」

「ああ、これはね。夢だよ」

「あたしの夢はね、アンタがさっさと月に還ることよ!」

「僕が言っているのは、人が眠りのさなかに見る夢のことさ」

「それで?」

「これは誰かの夢の中に僕ら、入り込んでしまっているんじゃないかな」

「はあ〜?」

「実際の君たちの家の寝室に押し入れはない、なのに、この場にある。ということ
は、今僕らがいるここは現実じゃないってことさ。考えると君の家に遊びにきたこ
とがある知り合いが、この夢の主なんじゃないかな」

そこでシンジはうなずいた。「そっか。人の家におじゃましても、寝室にまでは普
通入らないもんね」

「で、誰の夢なの」

軽い苛立ちを覚えながら、アスカは天井をぐるぐると見回した。言われてみれば、
いつもの我が家の天井のようで、夢だと言われれば知らない天井のような気もして
きた。

微笑みを絶やさず、カヲルが言った。

「たとえば、鈴原くんはどうかな。家に来たことはあるだろう?」

言われてシンジとアスカはうなずく。

「そういう意味じゃヒカリもそうね」

「だけど、彼女も寝室には入ったことはないはずだよね」

 カヲルの言葉にシンジはうなずいた。

「そうだよね。ってことはカヲルくんが言う通り、この家に遊びに来たことがある
人物が夢の主、ってことか」

「そうなるだろうさ」うなずいた青年の銀髪が揺れた。

すっとアスカの目が鋭くなる。口の端には不敵な笑みが浮かんでいる。

「この家に引っ越して来てから遊びに来た人はレイ、ヒカリ、トウジ、」言いながら、
アスカは指おり数えていく。「それから、お義父さんにリツコ、ミサト、加持さん、
冬月副指令、それとアンタ。で九人ね」

カヲルの鼻先に指を突きつけた。

それをカヲルは気にするふうもなく、鷹揚にかまえている。

「夢の主を目覚めさせるには、強い衝撃で起こすのしかないと思うよ。だけど肉体
的な衝撃で目が覚めるとは限らない」

「?」アスカが片眉をあげて続きをうながした。

「もっと違うやり方で衝撃を与えないとダメかもしれない。なにせ、夢だからね」

「それもそうだけど、夢の主ってどうやって判断すんのよ」

「夢だからね、支離滅裂だったり、意味不明なことをいう人がいたら、その人がそう
じゃないかな」

「ふーん」アスカはニヤーリと笑った。「じゃ、まずはあんたね。いっつも言って
る意味がわかんないもん」

彼がくるまっている布団ごと、アスカはカヲルを抱えあげた。垂直に、そして頭を
下に。

それはカヲルも気になったようだ。

「いやいや。僕はいつでも本気で話をしているから、意味不明ってことはないんじゃ
ないかな。それとこれじゃ天地が逆さ……」

アスカはカヲルを抱えたまま垂直にふわりと跳ぶ。浮き上がった勢いで、紅茶色の
髪が彼女の肩のあたりでなだらかな曲線を描いた。彼女の体は、すぐに重力に引
き戻される。逆さに抱えたカヲルとともに。

どす。

垂直落下のパイルドライバーで、銀髪の青年は床に突き刺さった。

ぱた。

とはだけた布団から見えるカヲルの姿は、どこか見覚えがあるようなポーズで。

あの後、僕とアスカは瞬間、心を重ねたんだよね、と十年ほど前のことをしみじみ
と思い出す。

「ふん」顔にかかる幾筋かの赤い髪を指先で払い、アスカは鼻を鳴らした。

シンジも辺りを見回すが、特に変化はない。

「この夢の主はコイツじゃないようね。まずは外に出ましょ。シンジ、行くわよ」

「うん」

「ちゃっちゃと片づけないと。なんせ後、八人もいるんだから」


   ■■■ ■■■ ■■■


外に出た二人は絶句した。

空は灰色がかった青で、その中を薄灰色の雲が幾筋も幾筋も、静かに流れていく。
少しばかりの寒さを感じる空模様だ。

夢の中のことであるので、今が何時かわからないが、午前五時だと言われても、午
後五時だと言われても納得するような空の明るさではある。

それはいい。しかし、辺りに建物がない代わりに、五階立てはありそうな花がそこ
かしこに咲いている。

右手に見えるスズランは花だけで寺の鐘ほどもあるし、その向こうのバラは人が隠
れられるサイズの花になっている。

さらに二人の視線の先、遠いところに富士山が、なぜか二つ並んでいるが意味がわ
からない。

不思議と世界に音はなく、それが余計に眠りを印象させ、やはりこれは誰かの見て
る夢だろうとシンジは考えた。

「いや、まあ、なんとも無茶苦茶ね〜。これってヒカリの夢かな? 花の夢を見る
なんてヒカリっぽいわ」

そこへヒカリとトウジが現れた。

「あら、二人とも。ふふ」結婚してもう何年も前から奥様だというのに、ヒカリは
少女のようにはにかんでいる。「相変わらず仲がいいのね」別に奥様がはにかんで
はいけないということはないと、彼女の為に弁護はしておく。

さてどうしようかとシンジが隣を見れば、アスカの姿がぼやけて消えた。

え!? とその場の誰もが思った時には、すでにアスカはヒカリの背後を取ってい
る。

「残念だったわね、ヒカリ! そっちはアタシの残像よ!」

一瞬にしてヒカリの背後に移動したアスカは、親友の首筋に当て身を食らわせた。

「これでどう!?」

崩れるように倒れこむヒカリの体を片手で支えつつ、アスカは周囲に眼を配る。

「な、なにがこれでどうや! いきなり人の嫁はんに当て身くらわせよってからに!
だいたいやな、おまえらが座布団からひよこ出すから手伝ってくれ言うてきたんと
ちゃうんかい!」

トウジは激昂しているが、最後の方は意味がわからなかった。

「アスカ! これトウジの夢だよ! 意味不明のこと言ってるし。それにほら!」

アスカは、シンジが指さす先を確認した。

彼方遠く、巨大な牛乳瓶にささった大きな大きな一輪のタンポポが、誇らしげに咲
いている。

トウジは中学時代、早朝に登校すると、人知れず教室にタンポポを飾る男で、その
光景をたまたま見つけた今の奥さんが『やさしい』と思ったとか。そんな話を彼ら
の結婚披露宴で聞かされた覚えがある。ちなみにタンポポは春の花と思われるだ
ろうが、トウジが飾っていたタンポポは、セカンドインパクト後の新種、ナツタンポポ
という。

「そうみたいね」

 伸びたままのヒカリをそっと地面に寝かせると、アスカはシンジの背後三メートル
ほどの位置に移動した。「シンジ、そのまま動かないでね!」

 助走をつけたアスカは、シンジの背中直前で跳躍し、彼の両肩にそれぞれ手をつ
くと、馬跳びの要領でさらに高く宙に跳んだ。

 彼女の体は、まだ自分を糾弾しているトウジに向けて落下し、メキシコ式空中殺
法・プランチャーを浴びせる。

「今度こそ、やったわよね!」

アスカは嬉しそうにシンジに飛びつきはしゃいでいるが、こういう台詞が出た時は、
たいてい『やってない』ことを碇シンジは知っている。

その考えを裏付けるためか、地面が揺れ始めた。

どすんと地響きが起こると、ぐらぐらと揺れ、どすんと再び揺れるとぐらぐら揺れる
ので、シンジとアスカは抱き合ったまま支えあう。

「流石はアスカね」ヒカリの声が辺りに轟く。

ビルの陰から体長二十五メートルはある巨大なヒカリが現れた。大きさに関しては
二十五メートルプールを縦にしたくらいのサイズと想像していただきたい。

「等身大のあたしは倒せたようだけど、巨大化したあたしは倒せるかしら?」

「もう! タクトを探しにいかなきゃならないってのに! ヒカリ! 手加減しないわよ」

見る間にアスカも巨大化し、ヒカリと同じサイズになる。

そこは付き合い良くなくっていいのに。とシンジは心の中で思った。あと、それどう
やって大きくなってんの?

ヒカリが右手を高く挙げ、叫んだ。「ダンナソード!」

次の瞬間、地面でのびているトウジの体が光とともに伸び、三メートルほどの棒に
なる。

それをつかんだヒカリが構える。
「ダンナソード、フレイム・オブ・ドーン(暁の焔)・トウジ!」

「そう使うのね。じゃ、アタシも〜。ダンナソード!」

ええ〜、夢だからって何でもありだな。と思っていると、シンジも光って伸びて棒に
なる。

「エタニティ・ラブ(永遠の愛)・シンジ!」

うわあああ。とアスカのダンナは心の中で叫んだ。名前がダサい。アスカってこう
いうとき、ほんとネーミングセンス無いんだよな。

これはアスカのメアドが「gekilove_shinji@」(激愛シンジ)だったとき以来の衝撃だ。
本人は満足しているのだろうが、名前を書かれる方としてはたまらない。

アスカの右手に握られつつ、シンジは心の中でつぶやいた。

誰の夢の中なのか知らないけど、僕の夢でないことはたしかだ。だって今の衝撃で
目覚めないんだもの。

巨大な奥様二人は、ちゃんちゃんばらばら切り結ぶ。

ヒカリはダンナソード・トウジを降りおろしつつ、

「FILAのプレミアもんやで。って結局、着るのジャージじゃないの斬り!」

と必殺技らしきものを叫ぶ。

それをダンナソード・シンジで跳ね上げて、切り返すアスカも、

「漢字のTシャツばっかり着て、日本に来て舞い上がってる外国人旅行者か斬り!」

それをかわしたヒカリがダンナソードを水平に薙ぐ。

「お好み焼きにご飯、けつねうどんにご飯で喜ぶから、たこ焼きでもご飯出したら
テンション下がるのやめて斬り!」

しゃがんで避けたアスカは、立ち上がる勢いを利用してヒカリにダンナソードを突き
出す。

「毎回毎回『美味しい』って言うまで、ハラハラした顔でこっち見んな突き!」

縦にしたダンナソードで突きをさばき、そのままバレリーナのように一回転したヒカ
リの袈裟斬り。

「人のこと『ぶたまん』ちゃんはないでしょ! 問いつめたら『食べちゃいたいくらい
可愛いんやもん』って意味分からないし斬り!」

それをダンナソードで受け、力で押し返したアスカが上段の斬撃。

「フリルのついた服着てたら、『金魚みたいに可愛い』ってそれ誉めてないから斬
り!」

うわああああ!

シンジは耳を塞ぎたかったが、棒となった身ではそれもままならなかった。

単に二人でダンナのグチを言い合ってるだけだよね、それ。

可愛かったんだ。アスカのこと可愛いと思ったんだ。金魚だって可愛いじゃないか。
可愛いから金魚みたいって誉めて、なにが悪いんだよおおおおお!!

心の奥底からの絶叫をシンジはあげた。

それは先方の旦那も同じようである。

心に多大なダメージを受けた二本のダンナソードは、ぽん、とはぜた。


   ■■■ ■■■ ■■■


目が覚めると、二人はベンチで互いに寄りかかるように座っている。広いスペース
でUCCの自動販売機が十台は並んでいる。ネルフの休憩所のようだ。

はっと顔を見合わせる二人。

「また夢かしら?」

「いや、まだわからないよ」アスカを見て、微笑みかけたシンジだったが、一瞬止
まり、そっぽを向いてしまう。「リツコさんの実験で、人の夢の中に入ったってこ
ともありえるし」

「それもそうね」

シンジはなぜか不機嫌だとアスカは敏感に察知した。その証拠に彼女と目を合わせ
ようとしない。

「どうしたのよ」

「……なんでもないよ」

吐き捨てるような言い方に、アスカはより確信を深める。

彼は何かを怒っているのだ。

「なんでもないわけないでしょ。あたしと話すときは、こっち向きなさいよ!」

両手でシンジの顔を挟みこみ、無理矢理に顔を向けさせるが彼の視線は左下に
向いていて、どうしてもアスカを見ようとしない。

「いい加減にしないと怒るわよ?」

「怒りたいのはこっちだよ……」

ぼそりとシンジは言った。勢いがついたのか、さらに言葉は紡がれる。

「さっき、トウジにプランチャーかけたよね。あれ、アスカの胸が当たってたんじゃ
ないの? 位置的にトウジの顔にアスカの胸が当たってたよね。絶対に当たって
たよね。なんだよ。ボクがさわると勝手にさわるなって怒ったりすることもあるのに
さ。なのに自分から当てにいくなんて」

「アタシのことが好きだからって胸にさわってきた時は怒ったことないわよ! 単
に揉みたいから揉んでくる時の話でしょ!」

「……でも、トウジにくっつけることなかったと思う」

うわあ。こうなったシンジはめんどくさいわね。

とアスカは思いつつ、顔がにやけてしまうのを抑えられない。シンジに焼きもちを
やかれるのは、いい気分だ。

両腕を彼の頭にそっと回すと、自分の胸の谷間に抱え込んだ。こうするとシンジは
新しい空気を吸い込めなくなるので、もっぱら自分が吐いた二酸化炭素を多めに
吸い込むことになり、おとなしくなる。シンジをおとなしくさせることなんて、アスカに
したらシンプルなルーチンワークだ。

「ごめん、シンジ。ごめんごめん。もうしないから」

「……うん」

シンジの深く吐きだした息が熱く感じた。アスカはシンジの額に、唇を近づける。

「二人とも、遊んでいる暇はないのよ」

いいとこだったのに、と心の中で舌打ちしつつアスカが顔をあげると、白衣のリツ
コが立っていた。腕組みをし、二人を見下ろす視線はいつもと相変わらず冷たい。

まだ自分の胸で静かに呼吸しているシンジの肩を、アスカは軽くたたいた。

自分を見るシンジに向かって、アスカは顎でリツコの存在を示す。

「これもまだ夢かしら」

「どうだろう、ネルフにいるみたいだけどね」

最近も、二人はエヴァの旧パイロットということで、実験に協力している。

先ほど、シンジが言ったように、今も実験中に見ている夢という可能性もある。

二人が並んで座ると、腰に手を当てた赤城リツコが話しだす。

「予定通り、今日はエントリープラグの実験を実施します。LCLの代わりにプリンで
プラグを満たします。その場合、LCLとプリンではシンクロ率の変動がどのように
変化するかを……」

「……夢ね」

「……夢だね」

アスカは、金髪の上司が熱にうなされたようにプリンについて熱く語るのを無視し、
休憩室の端まで黙って歩いた。

何をするつもりかと見ていたシンジと目が合うと、アスカはにっこりと笑い、右手の
指を三本立てる。

彼女の唇が動いた。「ドライ」

次にピースサインを作る。立っている指は二本だ。「ツヴァイ」

シンジにウインクしながら指を一本にした。「アイン」

そしてアスカは走り出す。紅茶色の髪をなびかせながら。

プリンがプリンがと、うわごとのように語るリツコに向かって、シンジの妻はヘッド
スライディングの姿勢で飛んだ。両手を顔の前でクロスさせる。

「くらえい!」

フライングクロスチョップというやつだ。

「プリン!」胸の辺りにチョップをくらったリツコは反対側の壁まで吹き飛ばされた。

「これでどう?」とアスカは天井辺りを見回すので、シンジもつられて周囲に目を
やる。

しかし、世界が暗転することもない。

「なんで? あたしのプロレス技、利かないっていうの?」

「そうじゃなくてさ。心に衝撃を受けないと主は夢から覚めないんだと思うよ。さっき
だってそうだったよね。トウジが洞木さん、じゃなくてヒカリさんから衝撃の新事実を
聞かされてさ、それで夢から覚めたんだよ」

「ふーん。心の衝撃ねえ」

「何かリツコさんが心に衝撃を受けること言わないと」

「たとえば?」

「えっと……。リツコさん。髪が金髪なのに眉毛だけ黒いのは植木等リスペクトで
すか?」

とたんに世界の緞帳が降り、二人の視界は暗くなる。


   ■■■ ■■■ ■■■


シンジとアスカが目覚めると、そこは司令室だった。

二人は広い司令室の中央に立っている。

そこから十数メートル離れたところに執務机があり、そこには碇シンジの父親が座っ
ているのが見えた。

執務机に座る碇ゲンドウは、両肘をつき、口元を手で隠すいつものポーズだ。サン
グラスの向こうの目が、高圧的な光を放っている。

その傍らに、針金のように細い体をぴん、と伸ばした冬月が立っている。

シンジとアスカは揃って、室内に顔を巡らせた。

室内は体育館ほどの広さである。そこに四人の人間と一つの執務机だけという形。
あまりに広いので、静寂しか聞こえない。

何もない空間が多すぎて、シンジはいつもここに来ると、いたたまれなさを感じて
いる。

夢だからか、室温は暖かくもなく、涼しくもない。ただ、父親が自分に向けてくる
圧力だけは肌で感じ取れた。夢であるのにそこだけリアルなことが、シンジには少
しだけ不思議だった。

これが夢なのは、ほぼ間違いない。

司令室に呼び出され、二人揃って立ったまま寝ているわけがない。

シンジは、この部屋にもう何年も入っていない、ということもある。

室内には斜めに光が射し、ゲンドウと冬月の影が壁に長く長く伸びている。

司令と副司令。

「どっちかの夢ってことだよね」

夢であるから気にする必要はないのだが、シンジはアスカの方に体を傾け、ささや
くような声で、耳うちした。

二人の上司から目をはなさず、アスカもそっと返す。

「これがもし副司令の夢だったら、手加減しないわよ、アタシ」彼女の瞳に炎が燃
え立った。「あの人、前にタクトを抱っこしたとき、ユイくんには似ていないなって、
ぼそっと言ったのよ。しかもすっごく残念そうな顔で」

「口が滑っただけかもしれないよ」

「口が滑るってことは、心の中でそう思ってたってことでしょ! どんな隔世遺伝
を期待してるんだっちゅーの! サイテーなのよ、あのジジイ! あー。思い出し
ただけで腹が立つわ! 夢なんだから、この際、多少過激にやってもかまわないわ
よね……」

そこまで言って、アスカはつま先に重心をのせた前傾姿勢をとった。

目は光を発っするばかりに輝き、開いた口からは、はあはあと息が漏れている。

両手はかぎ爪のように五指が曲がり、それぞれがわきわきと動いている。

二人の会話を気にする様子もなく、冬月が口を開いた。

「シンジくん、アスカくん、この状況はどうしたことだね。碇の奴に訊いても、馬には
人間が入ってるんだ。その証拠に背中にチャックがある、などと言うばかりでね」

ってことは、これは父さんの夢ってことか。

「ねえ、アスカ……」と傍らにいる妻の名前を呼んだときには、すでにそこにいない。

「この際、どっちでもいいわ!」

ダッシュで冬月の懐に飛び込んだアスカは、左右のフックを相手のわき腹に五回、
六回と連打で叩き込んだ。

「これはタクトの分!」

「うっ」前に体を折り曲げる副司令のみぞおちに両掌打を打ち込んで浮かせる。

「これもタクトの分!」

冬月の体が三メートルほど浮き上がる。

それを見上げながら、アスカは右腕をぐるぐる回したのち、落下してくる冬月を渾
身のストレートで殴りつけた。

「そしてこれが、タクトの分よーーーーー!!」

アスカに殴られた衝撃で吹っ飛んだ老人は、床で何度かバウンドし、十数メートル
転がり、最後は壁にぶつかって止まった。

「君は相変わらず、暴力的だな」

アスカが目の前に立ったというのに、ゲンドウはいつもの姿勢を崩さない。

「嫌だわ、お義父様。まだ終わってません」

座ったままのゲンドウの頭を、アスカは右腕で絡めとろうとしたが、途中で動きが
止まる。

自分の胸が他の男の顔に当たると、シンジの機嫌が悪くなるのを思い出したようで
ある。夫に焼き餅を焼かれるのは嬉しいものだが、限度があることを碇アスカは知っ
ている。

アスカは口元に拳をあて、一度咳払いをする。それで仕切なおしのようだ。

両手で手刀をつくると、顔の前で交差させる。流れるような曲線を描いて頭の上ま
で振りかぶる。ヒュッとアスカの口から鋭く風を切る音がしたかと思うと、二つの
手刀が碇ゲンドウの頸動脈を同時に左右から打つ。

「これはシンジの分!」

この技名を、モンゴリアン・チョップという。すでに命名はされている。

イスからどさりと落ち、うつ伏せに倒れているゲンドウを、まずは仰向けにひっくり
返すと、アスカはその両足をそれぞれ自分の両脇に挟み、広い場所まで引きずっ
た。

「シンジ〜。見て見て〜」

そう言って、自分の夫がちゃんとこちらを見ているかアスカは確認する。その後は、
自分を軸にゲンドウをぐるぐる振り回すだけだ。

「ジャイアントスイング〜」

一回転を一年分の恨みとして、最低二十回転はしてやるわ。とアスカは考えている。

四才のシンジを捨てた分として一回転、十四才のシンジに説明もしないままエヴァ
に乗せた分として一回転。と、シンジを想ってゲンドウをジャイアントスイングで
振り回す。

「そしてこれが、シンジの積年の恨みの分んんん〜〜!」

叫びながら、アスカは空中へと義父の体を放り投げた。

一方、シンジは回転数に込められた意味を理解していない。

驚いているだけだ。

それ全部、アスカの怒りだよね? 僕とタクトの名前だして、自分の溜飲さげただ
けだよね!? と。

何故だか彼女がいきいきとしているように見えたので、なんとなく、これはアスカの
夢ではないかとシンジは思った。

広い司令室の壁までライナーで飛んだ碇ゲンドウは、壁に突き刺さったかのように
見えたが、次の瞬間には姿が消えている。

シンジとアスカが探すと、ゲンドウは先ほどと同じ姿勢で執務机に座っている。隣
には冬月までもが手を後ろに回した直立不動で立っている。なにもなかったかのよ
うに。

ふん。

アスカが鼻を鳴らした。「けっこうしぶといわね」

唐突に碇ゲンドウが口を開いた。

「シンジ、アスカくん。私を越えたければ、しりとりをしたまえ」

「いやです」間髪入れずにアスカが断る。

「アスカくんにはハンデをやろう。ドイツ語しりとりでいい」

「やりません。余計に結果の予測がつくんで」

アスカの答えはにべもないが、碇ゲンドウも取り付くしまがない。

「私からいくぞ」

「話し合いの余地ないの!?」

「そうだな……。バームクーヘン」

そして、刻は止まる。

最初に動き出したのはアスカで、手近なシンジの腰に両腕を回すと締めあげた。

「あ・ん・た・ら、親子はー!!」

「落ち着いて、アスカ」肩を軽くたたいて、シンジは妻の腕からからくも逃れた。
それからゲンドウに厳しい目を向けた。「父さん、しりとりでいきなりバームクー
ヘンはないよ」

「なぜだ。バームクーヘンは関西弁だぞ」

「は?」

「お姉さん茶ぁ、しばきにいかへん? の一つ上のランクの誘い方だ。『お姉さん、
お茶しばき倒しに行きませんか』の意味だな。バームクーヘン」

「これがさらに上になると、『お姉さん、ピンクのドンペリはどうですか。フルー
ツ盛りも付けますよ』になってだな、ハグレデカ・ジュンジョウヘンになるわけだ」

「その前に『ン』がついたから、父さんの負けだよ」

「まだだ、シンジ。まだ『んなとぅ』があるだろう」

「は!?」

「『んなとぅ』は沖縄の言葉で港の意味だ。まったく。沖縄は、んではじまる言葉
が多くてな、しりとりが終わる気がしない」

シンジはこめかみを揉みながら思った。

この父さんは、いつも以上に手強いぞ。

どうしたものかと考えだしたシンジの左手に、ふんわりとした暖かさがが沁み通って
くる。はっとして手を見れば、アスカの右手がそっと彼と手をつないでいるところ
だった。指と指とをからめるように。

アスカの顔を見れば、緊張した面もちでいる。

さすがのアスカも、父さんと話すときは、やっぱり緊張するんだろうな。

そう思うシンジは、先ほどアスカが自分の父をジャイアントスイングで振り回した
ことをすっかりと忘れている。

大丈夫だよ、と言う代わりにシンジは妻の手を柔らかく握った。

一回、息を深く吸い込んだアスカは、強く息を吐き出すと、シンジと握っているのと
反対の手で義父を指さした。

「お義父さん!」

大声で呼ばれたせいで、ゲンドウの肩が微かに震えたことに、二人は気づけない。
気づくことができていれば、彼らの関係はまた違ったものになるかもしれないが、
それはまだ先のことだ。

アスカは一気にまくし立てる。

「もうタクトのこと抱っこさせませんからね! それと今後、娘が生まれたら、
お義父さんのこと、クソジジイって呼ぶよう、しつけますから!」

それがゲンドウには相当の衝撃だったらしい。

司令室の辺り一面から闇が染み出し、それがシンジの視界を覆い尽くす。


   ■■■ ■■■ ■■■


シンジとアスカが目覚めると、そこは葛城家のリビングである。

碇家のリビングでないと思える根拠は、テーブルがないことと、部屋が散らかし放
題のところである。

気づけば、シンジはピンクのポロシャツにジーンズ。

アスカはピンクのタンクトップに白いホットパンツと、先ほどまでとは服装が変わっ
ている。

『あの頃』の二人がよくしていた格好だ。

しかし、体型は当然かわっていて、二人ともれっきとした成人のそれである。

シンジはアスカを盗み見る。

彼女の胸がタンクトップを押し上げているので、その二つの丸みが布地の上からで
もはっきりと見えるし、その分、引っ張りあげられた裾からは腰のくびれのライン
がチラチラと見えている。

それを見たシンジは、ちょっと得した気分になった。

夫婦なのだからもっと堂々と見れば良いようなものだが、それをすると、恥ずかし
がったアスカに目と目の間を拳で打ち抜かれかねない。

シンジは実際に二度ほど打ち抜かれたことがある。あのときは首から上がどこかに
飛んでいったかと思うほどの衝撃だった。あれを味わえば、三度目からはこっそり
見るしかない。

見なければ見ないで、自分に愛情がなくなったのかとアスカに詰問される。この辺
りの絶妙な線引きが、夫婦円満のコツなのだろうとシンジは考えている。

「またこれも誰かの夢、なんでしょうね……」

アスカが不満げに口をとがらせる。

「そうだろうね、きっと」

二人そろって懐かしい服装でいるのだから、現実ということはないだろうと、シン
ジは妻の意見に同意した。

どこかからカレーの匂いがする。

「夢の主かな?」

シンジの言葉にアスカが答える。

「さーて、誰かしらね。カレー作ってるの、ミサトじゃなきゃいいけど」

リビングを抜け、二人がキッチンに入ると、エプロンをした加持リョウジが鍋をか
き回しているところだった。

「加持さんじゃなーい」

アスカが嬌声をあげるが、シンジは気にしない。

「加持さん、お久しぶりです」

丁寧に挨拶する。昔は彼のような男になりたいと思ったこともあったが、今では
自分は自分と考えている。

そう思えるようになるくらいには、シンジも大人になっているのだ。

おたまを持つ手を止めた加持が、二人に気づいて手を止めた。

「お。シンジくんにアスカ。聞いてくれよ二人とも。スーパーの前なんかにガチャ
ガチャあるだろ。あれをくるくる回してたらカプセルにカレーが入ってたんでな。
それを料理してたところだ」

「へー」とアスカはうなずいた「加持さんだったんですね。料理してたの。どうり
でカレー臭がすると思った!」

アスカは日本語が得意だが、たまに誤用するときがある。

「加齢臭……」言われた加持の顔が青ざめた。「二十八通りの方法でアンチエイ
ジングに努めてきたが、もう若くないってことだな。」

ブツン。

テレビの電源を切ったときのように一面が暗くなる。

早いな今回は。

とシンジは思った。


   ■■■ ■■■ ■■■


シンジとアスカが目覚めると、そこは葛城家のリビングである。

やはりここでも、シンジはピンクのポロシャツにジーンズ。

アスカはピンクのタンクトップに白いホットパンツという、先ほどと同じ服装の
まま。

『あの頃』の二人がよくしていた格好だ。

しかし、体型は当然かわっていて、二人ともれっきとした成人のそれである。

再び、シンジはアスカを盗み見る。

彼女の胸がタンクトップを押し上げているので、その二つの丸みが布地の上からで
もはっきりと見えるし、その分、引っ張りあげられた裾からは腰のくびれのライン
がチラチラと見えている。

それを見たシンジは、一日に二回もアスカのあの格好が見られるなんて、とかなり
得した気分になった。

「またここ〜?」

アスカが不満げに口をとがらせる。

「でも、この夢の主はほぼ決まってるんじゃないかな」シンジは自分の考えを口に
する。「さっきのこれは加持さんの夢だったんだから、あとはミサトさんだよね」

「それもそっか」

二人の会話が終わるのを見計らったかのように、ミサトの部屋のふすまが開いた。

四つん這いでのそのそとリビングに現れたのは、やはり、ミサトだ。

「あ〜〜。シンちゃ〜〜ん。アスカぁ〜〜。おふぁよほ〜〜」

夢の中でも二日酔いなのか、彼女の緩慢な動きは、間の抜けた挨拶と同じく、覚醒
するにはまだまだ時間がかかりそうだ。

「ちょっと、ミサト。しっかりしてよね。ミサトが見てる夢のせいで、アタシたち
タクトと離ればなれになっちゃってんのよ」

「タクトくんがどうしたっていうのよ〜」

グレゴリー・ザムザが変身した毒虫のような動きでミサトはリビングに這いずって
くる。その襟首をアスカがつかむとフローリングの床に座らせた。

「ほら、しっかりしてよね。そいでさっさと心に衝撃を受けてもらうわ」

「さっきからなんなのよ〜」だらしなく座るミサトはガシガシと頭をかいた。まだ
寝ぼけまなこのままだ。「加持くんは〜?」

「そうよ。加持さんがカレー作ってたのよ」

夢の中の話であるが、まあ間違いではない。

それを聞いたミサトは目を見開いた。

「え? カレーなら、いっつもアタシが作ってやってんのに。アイツ、なんで自分
でカレー作ってんの?」

加持がカレーを作っている。

それが衝撃だった模様で、あたりは渦を巻くように回転し、シンジとアスカの視界
はふさがれる。

その最中に、シンジは考えた。

「ミサトさんって、あのカレーに自信あったんだ」


   ■■■ ■■■ ■■■


目が覚めると碇家の寝室である。

よくわからない現象にいい加減、嫌気がさしている。そのせいで体には気だるさが
残るが、あえて鞭打って体を起こす。彼らの息子の安否を確認したいという、ただ
それだけのために。

夢の中でおもしろおかしく暮らすのはそんなに悪いものではないかもしれない。そ
こにアスカとタクトがいるのなら。

しかし現状、必要条件の一つが欠けているなら、前に進むしかない。

これも自己愛の一つなのかな、とシンジは自嘲した。

寝室の隣につながるふすまが開かれ、その前にアスカが立っている。タクトがいな
いことは、彼女の肩が下がっていることから明らかだった。

またか、とシンジはため息をついた。横からアスカの肩を抱く。彼女の体が冷えて
いるのが、布地の上からでもわかる。

「アスカ。きっとあとちょっとだよ。もう少しだけがんばろ?」

「こんだけやってもまだ夢から覚めないなんてね」アスカもため息をついた。「も
う他にいないじゃない」

シンジは考えたくない容疑者をあげることにした。本当に、そうでなければどれだ
け良かったか。

しかし、彼の、彼らの人生を取り戻すためには、言うしかなかったのだ。

「僕らがいるじゃないか」

「あたしとシンジってこと?」

自分を見上げるアスカに、黙ってうなずいた。彼女の長いまつ毛が不安そうに揺れ
るので、もう一度うなずいた。

最後に残った容疑者は二人。シンジとアスカだ。

どちらかの夢の中に二人揃って巻き込まれている、そう考えるしかない。この場合、
恐ろしいのは、いったいいつの時点で見ている夢なのか、になる。

二人が結婚して子供が産まれた後に見ている夢ならいい。夢の続きはそこから始ま
るのだから。

しかし、十四歳だった『あの頃』に見ている夢だったら?

それがシンジには恐ろしい。

自分の夢だった場合、もう一度あの死闘を勝って生き延びなければならないし、な
おかつアスカに告白し、OKをもらい、結婚してここまで来る?

アスカが十四歳の時に見ている夢だった場合、最悪、今の自分は消える可能性が
ある。夢の外に本当の自分がいると想像できるが、今の自分だって自分なのだ。
彼女が本当の人生を取り戻せるなら、あきらめもつくが、せめてさよならを言う猶予
くらいはほしい。

「しょうがないわよね。ここから出ないことにはさ」

頭のいいアスカのことだ。シンジが考えたことなど、すでに彼女も考えているはず。
それでもきっと、本当の生活を取り戻すために決断したのだろう。

やっぱり、アスカと一緒にいられて良かった。

そして、ありがとう、過去のがんばった自分。十八のときに勇気を振り絞って良かっ
た。

感慨深い気持ちでいるシンジを気にせず、アスカは言い放つ。

「アンタの夢かもしれないわけよね。い〜い? シンジ。今からあたしが三回手を
打ったら、すぐ起きんのよ」

「ちょ、ちょっと待ってよ」

唐突に手を打とうとするアスカの両手を、シンジはあわててつかんだ。

「なによ」

「それでもし僕が目覚めてさ、最初に見たのが知らない天井だったらどうすんのさ」

「はあ〜?」

彼女は、シンジがエヴァンゲリオンに初めて乗ったあとのことを知らない。

「だから、十四歳だった『あの頃』に戻ったらどうするのって話だよ」

「その時はその時でしょ!」

アスカは頭をガシガシかいた。

「またあたしに出会って、一緒にここまで来ればいいじゃん!」

「でもまたこういう風になれるかどうかわからないよね! 最悪、アスカが僕のこ
と好きにならなかったらどうすんのさ。そんなのやだよ!」

「何を今さら怖じ気づいてんのよ! アンタから好きもプロポーズも言ってきたん
でしょ。また勇気出しなさいよ!」

たしかにシンジは「好き」も「つきあって」も「結婚して」も勇気を出して自分か
ら言った。

正確に言うと、言わされたのだ。全部アスカに。

やんややんやと言い合っている二人をよそに、周囲の状況が変化する。

夢だからそんなことが起きるのだろうが、空中に大きなスクリーンが浮かび上る。

それに気づいた二人は、言い合いをいったんやめ、今度は何かとスクリーンを見上
げた。

そこに映し出されるのは、車に乗ったシンジとアスカだった。

あ、これ、僕が車の免許取って、初めてアスカとドライブ行ったときのやつかな。

自分でいうのもなんだけど、映画のワンシーンみたいだな。とシンジは思う。

スクリーンに映し出されている運転席のシンジは、真剣な面もちで、前を向いてハ
ンドルを握っている。ときたま、助手席に座るアスカをちらちらと見るが、とうの
彼女はサイドウインドウに頬杖をつき、外を眺めているばかりでシンジの方を見よ
うともしない。

唯一の救いは、彼女が微笑んでいることだ。彼女は怒っているわけではない。出発
の際、ドアを開けたシンジを見もせず、助手席に座り込んだので心配していたのだ。
その時も表情が少し固かった。

銀色の街を抜け、小高い丘を一つ越え、海岸線沿いの国道を走っていると、アスカ
が歓声をあげた。

なぜか、洋画の字幕のように二人の台詞が文字としてスクリーンに浮かび上がる。
相変わらず、一段下がった文章である。

 ほら、シンジ! あれ、見て! 白い鳥! あれがカモメかしら?

そんな余裕はシンジにない。

 そ、そうなんじゃないかな。

 なによ、ちゃんと見なさいよ。アンタさっきから前ばっかり向いてんじゃないの。

 う、運転中にそんな余裕ないよ。

 もっと前から練習しときなさいよね!

ドライブのシーンを見るシンジは、顔から火が出る思いでいる。

あー。あったあった。よくまあ、あんな恥ずかしい台詞言えたもんだよね。なんと
か冗談めかしてはみたけどさ。

シンジの次の台詞はこうだ。

 初めてのドライブはアスカとが
 いいかなって思ったんだ。

それを聞いたアスカの顔が、ぽっと赤くなる。変な笑い声とともに運転中のシンジ
の肩をバシバシ叩いた。

 んふ。んふふふふふ。んふふふふふふふふふ!

 あぶ、あぶないよ、運転中に!

(ウ♪。♪♪ジが♪タ♪とドラ♪♪来たかっ♪♪♪て言って♪♪るなんて。嬉♪♪
ぎる! 言葉にな♪♪♪)

アスカの心象がカッコで現れるが、彼女の気持ちが踊っているのか、一部が音符に
変わってしまい、すべては読み取れない。

「ウ。ジがタとドラ?」

字幕スーパーをそのまま声に出して読んだ。声にならない悲鳴を上げて、アスカは
彼の背後から手を回し、シンジの両目を手でおおう。

「な、なに人の心情勝手に読んでんのよ!」

「しょうがないじゃないか! 書いてあるんだから。でもさ……」

「なによ」

「なんか懐かしいよね」

アスカは手を離した。並んだ二人はスクリーンに目をやりながら、シンジは左手を、
アスカは右手を動かす。求めているものはすぐに見つかる。そして二人は手をつなぐ。

スクリーンの中の二人はお互い赤くなったまま、黙りこんでいる。

こちらのシンジはアスカの手の柔らかさを感じている。少し冷たい彼女の指先を、
シンジは手のひらで包み込んだ。

あの頃は、互いの距離を縮めるにはどうしたらいいのか、想像もつかなかった。

シンジは心の中で、「頑張れ二人とも」とスクリーンの二人に声援を送る。

答えは求めてれば必ず見つかるから。

一見、難解に見える問題ほど、解法はシンプルなんだよ、と。

目的地の灯台は、カップルや親子連れで賑わっていた。

そのあたりまではアスカも上機嫌だったのだ。

帰りがけによったイタリアンレストランでも、何を緊張しているのか、アスカにしては
珍しく、皿にフォークやナイフが何度もあたり、カタカタ言わせたりもしていたが。

シンジは恥ずかしくて身もだえしつつも、懐かしさがこみ上げてくる。

ああ、この後だ。この後にマンションの前で僕はアスカに告白させられるんだよね。

「好き」と「つきあって」の言葉を、二人で行った初めてのドライブの帰りにアスカに
言わされた。

デザートの皿が下げられ、コーヒーを飲み終わる。

 それじゃ、帰ろうか

と、シンジが言った途端にアスカの機嫌が悪くなった。

あからさまに怒のオーラを放っている。

コンフォートマンションにたどりつき、駐車場に車を止めたとき、助手席で腕組みを
したまま座るアスカが口を開いた。

 アンタね、なんか言うことあるんじゃないの!

アスカがなかなかシートベルトを外さないので、外に出るタイミングを失っていた
シンジは、驚いて聞き返す。

 え!? 何が?

アスカはダッシュボードを手のひらでガンガンたたいた

 あたしのこと、どう思ってるかってことよ!

 え? なんで今?

 こういう雰囲気で言わないで、いつ言うのよ!
 てっきり灯台のとこで言うのかと身構えてたら
 スルーされるし!

 あんなに人がいるところじゃ…………。

 レストランで、言ってくるのかと思ったら
 ホントにご飯食べて終わりだし。

 あそこも人がいっぱいいたわけだし…………。

 言う気持ちがあれば、どこでだって
 誰がいたって、言えるはずでしょ!

そこまで言われれば、いかに鈍いシンジと言えど理解できる。彼女から言えと言わ
れたのだ。言っても大丈夫だろう。それに、こんなチャンスは、そうそう無い。

それでもかなりの勇気を振り絞らなければならなかった。

 ……っ! 好き……、です……。

 うっ……。

言われたアスカは、一瞬で顔を赤く染めた。薄暗い車内なので、それがシンジには
見えないのがありがたかった。

 ア、アンタねえ、他にも言うことあるでしょ!

こうなれば言わなければならない。ここで『それ』を言わなければ、この先一生、
言える気がしない。

 ……僕と、つきあってください!

 う……

言えといったのは自分の癖に、実際に言われてみると、嬉しすぎてどうしていいか
わからなかった。

彼女の心情まで文章化されて字幕としてスクリーンに現れだす。

(う、嬉しい。脳内シミュレーションしたときには、好きって言われるの、こんな
に嬉しいものだなんて思わなかった……)

 ほら……。
 アンタだって……。
 ちゃ、ちゃんと言え……、るんじゃない。
 ……グス

スクリーンのアスカの瞳から、泪がこぼれる。次々と彼女の心象が現れては消える。

(嬉しい時に、まさか泪がこぼれるとは思わなかった)

それを見たスクリーンのシンジはハッとしたようで一瞬、動きを止めるが、緊張の
面持ちでシートベルトに手を掛ける。

(シンジと出会ってから、アタシは弱くなった)

震えるシンジの手は何度も失敗するが、どうにかシートベルトを外すことに成功する。
 
(シンジの前で泣くことが多くなったのが、その証拠だ)

身を乗り出し、そっとアスカを抱きしめる。

(違う。アタシは一人きりで泣くことが少なくなった)

両手で顔を覆っていたアスカは、そこで顔をあげた。そのままシンジの胸に顔を押
し付ける。

(アタシが泣くときは、いつもコイツがそばにいたんだっけ)

自分の頭にシンジが顎を乗せているが、どける素振りを彼女は見せない。

(シンジの前でなら泣いてもいいのだと、アタシは無意識に感じ取ってたんだろう)

泪はすでに止まっている。彼女はそっと彼の背中に腕をまわす。

しばらく時間が止まったかのように二人は動かない。

それでも今の二人は覚えている。

あの時、このまま時間が止まればいいのに、と考えていたことを。

心が暖かいもので満たされていく感覚を。

自分の何かが許されたように思えたことを。

父や母を許せるような気がしたことを。

ようやくシンジが体を離したとき、アスカのまつ毛が怯えるように震えた。

彼女を落ち着かせるためにシンジは笑顔を作ろうとするが、曖昧な微笑みにしかな
らない。片方の泪の筋を親指で優しくふき取る。

体を動かし、残る一方の泪は、彼女の頬に唇を寄せ、そっと吸うことで拭い、そし
て聞く。目を反らしながらなのはご愛嬌だ。

 泣くほど嫌だった?

 バカね。
 そんなわけないでしょ
 そんくらいわかりなさいよ

 わからないよ。
 だってまだアスカの返事聞いてないし。

 おふっ

(おかしい)

スクリーンにアスカの心が浮かぶ。

(シンジから自分のことを好きと言わせれば、自分が主導権を握れると思ったのに)
 
(なんでこんなにコイツ、余裕あんのよ)

(だって、自分からは好きと言えなかった)

(自分から踏み出して、二人の関係に何か変化が起こるのが怖かった)

(アタシも、弱くなったもんだわ)

(だけど…………)

(変化するのも、悪くないわね)

「ちょ、ちょっとちょっと。何よこれ! 何でアタシの心の中ばっかり出てくんの
よ。シンジ、アンタあっち向いてなさいよ!」

自分の心の奥深くまで字幕スーパーで出されてはたまらない。

必死で腕を振り回し、シンジの目に字幕が入らないようにしてみるが、無駄な努力
で、彼にはすべてを読まれてしまっている。

しかも恐ろしいことに、彼女の心情はまだまだ続くのだ。

(エヴァンゲリオンのパイロットになって良かった)

(ドイツでの厳しい訓練に耐え、がんばって良かった)

(アタシはアタシに生まれて良かった)

(アタシがアタシじゃなかったら、きっとシンジに会うことはなかったはずだもんね)
 
「あー。もう! いいわよ!」

アスカは頭をガシガシかいた。恥ずかしさのあまり地団駄を踏む。

「これはアタシが見てる夢よ、きっと!」

すこし、アスカはうつむいた。そっとつぶやく。

「今までのこと、全部ひっくるめて夢だったとしても。今度はアタシがアンタを捕まえ
るから」

「なにか言った?」

アスカのつぶやきは、シンジには聞こえなかったようだ。それが少しほっとしたよう
な。なんで聞こえてないのよ、と苛立つような彼女は、今度は心の中でつぶやいた。

ホント、こういうの悪くない。

それから今の気持ちを声にして出す。思ったよりも小さい言葉でしか出なかった。

「こんな夢が見れたんだから、もし次に起きて最初に見るのがネルフのドイツ支部
の、あの面白味のないグレーの天井でも、絶対にもう一度ここまで来るわ」

「え? なんて言ったの?」

心のどこだかで、ぷちっと何かが切れたのがアスカにはわかった。

「うっさいのよ、バカシンジ!」彼の耳を摘み、彼女はつま先だってシンジの耳に
自分の唇を近づけた。

「アタシの心がここまで出てるってことは、アンタの夢の可能性は無いわね」

「そうだね。アスカの見てる夢って感じかな」

シンジは、優しく妻の手首をつかんで、耳から離す。

アスカの細い腰を抱き寄せる。花のような甘い香りがする。シンジはこの匂いが大
好きだ。抱き寄せた妻の腰は柔らかくって、手のひらから心地よさが伝わってくる。

ああ、アスカってほんと柔らかいな、とシンジは手のひらから受ける感触を堪能する。

「な、ななな、何よ。いきなり!」

「え? キスするんだよ」

「な、なんで?」

「アスカは嫌なの?」

「いやじゃないわよ」何を言わせるのよ、とアスカは考える。ほんとにコイツは意地が
悪いわ。「アンタ、今の状況わかってんの? なんでキスなのよ」

「眠ってるお姫様を起こすには王子様のキスって、昔から決まってるんだよ」

「アンタが王子様〜?」

シンジは少し目を細め、困ったように笑った。

初めて出会ったときと、コイツの笑い方ってホントに変わらないのよね、とアスカ
は苦笑する。

十四歳だった『あの頃』初めてあった時と、同じ笑い方。

「まって。キスするのはいいけど、一つだけ絶対に守って欲しい約束があんの」

「なに」

「目が覚めたら、二人でいるのか、アンタとアタシが別々かわかんないけどさ」

「……うん」

そこは二人とも、多少心配な事柄だ。

「最初に顔を合わせた瞬間、アンタからアタシにキスしなさいよ」

「いいよ」

「それから……」

まだ言い募る彼女の唇を、シンジは自分のそれでふさいだ。


   ■■■ ■■■ ■■■


 水中から静かに水面へ浮き上がるような感覚。ゆっくりと顔が、胸が、つま先が水
から浮かび上がるような。そこからさらに体がぷっかりと水面に浮かび上がる感覚。

 柔らかな日差しが、彼女の頬や鼻、額に優しく触れているのが、目を閉じたままで
もわかる。

 そこでアスカは目を覚ます。

 自分の顔のすぐ横に、シンジの顔があるのに気づいた彼女は驚いたが、それも
ほんの少しの間のこと。

 シンジからキスで起こしたくせに、人さし指を自分の唇の前に立て、「シーッ」と
彼女に沈黙を要求する。

 その後、彼女の体の横を示した。

 何事かとアスカが顔を傾ければ、そこには眠る赤ん坊の姿がある。

 彼女が眠る前に見ていたタクトの寝相のままだ。

 どーん、と彼女の感情が花火のように打ち上がる感覚をアスカは感じていた。
ぱっ、と夜空に咲く花の形をした高揚感が彼女の胸に湧き上がり、タクトを抱き上
げる。起こさないよう、ぎゅっと抱きしめるのを我慢する。それに彼女は大量の忍
耐力を必要とした。

「タクト、タクト、タクト……」自分の胸で眠る赤ん坊の脳天に頬ずりを繰り返す。

 そのまま体を起こし、座りなおす。

 自分とタクトを暖かい眼差しで見守るシンジに向かって、アスカはおそるおそると
いった風に口を開く。

「これがさ……。また……。夢だったなんてことは……」

「大丈夫だよ。今の僕らなら大丈夫」

 優しいシンジの声音に、アスカは彼の顔を見る。

「だってさ、ミサトさんちでアスカとシンクロ訓練してたときあったじゃない。
アスカ寝ぼけて僕の布団に入ってきたんだよね。あの時、僕はドキッとしたんだ」

「あとさ、初めてキスしたときもさ、キスしようか? ってアスカに言われて、
ドキッとしたんだよね」

「あれだけドキッとしたのに目が覚めなかったんだ。これは僕の現実だよ」

「僕らの、でしょ」

「そうだね」

「あれから、この現実は始まったんだよ。なんだか夢みたいだ、と思えるような現
実がね」

 その言葉に、アスカはドキリとしたが、視界が暗くなることも、白く光り出すこと
もない。

 ってことは、アタシの現実でもあるってことよね。

 目覚める直前に頬や鼻や、額に感じたあの感覚。あれはシンジがアタシにキスした
ときのものだ。あれは現実の、アタシだけの感覚だ。

 なぜだか嬉しくってアスカは小さく笑う。ふと、アスカはあることに気づいた。

 ニヤーリ、と彼女の頬は少しばかり上がる。

「どうしたの?」

 シンジが聞くので、アスカのニヤリ顔はさらに続く。

「アンタ、アタシとの約束、まだ守ってないわよ」

「え? 僕はちゃんと目覚めた後すぐ、寝てるアスカにキスしたよ?」

「うぐ」それはもったいないことをした。アスカはすぐに気を取り直して言う。
「違うでしょ。さっきのはアタシが寝てるときでしょ。アタシが言ったのは、
『アタシが』目覚めて、アンタと顔を合わせた瞬間ってことよ」

「えー。そんなルールだったの」

「なによ。嫌なの?」

アスカの細い眉が、小さく上がるので慌ててシンジは言う。

「ヤじゃないよ。ヤじゃない。します。させてください。お姫様」

「そうよ。お姫様ってのはワガママなもんなんだからね。それにアンタは一生付き
合いなさい」

 言葉は高飛車だが、シンジはすでに気づいている。彼女の頬がうっすらと朱がさし
ていることに。

「キミが望むなら。いつだって、何度だってするよ」

 困り顔で笑う王子様は、そっとお姫様に顔を近づけた。


(了)   蛇足でございます。