『シンプルライフ』 パラレルA
台所から、包丁が食材を刻む、規則正しい音が室内に広がってゆく。
その音の主は、碇家の主婦であるアスカだ。
キッチンテーブルのそばにはベビーチェアが一つある。
そこには薄桃色の産着を着せられた赤ん坊が座っていて、期待に満ちた青い目を、
母の背中に向けている。
赤ん坊は、包丁の音に合わせて声をあげる。
トントントン。
「あ! あー! あ!」
料理中のアスカが、両手を振り回す赤ん坊に呼びかける。
「はいはーい。ミライー。ちょっと待っててねー。もうすぐおいしいご飯よー」
彼女が振り返ると、娘のミライと目が合う。
それはくりくりした輝く瞳だ。アスカを見つめる赤ん坊は小さな口を開けて笑ってい
る。
ミライの胸に巻いたよだれかけで口の周りを拭ってやると、彼女はくすぐったそうに
目を細め、うきゅんと笑い、そのたび赤みがかった前髪が柔らかく揺れる。
その様を見て、アスカは体の内側から何かが高まってくるのを感じる。同時に赤ん坊
を抱き上げたい衝動にかられるが、今は火を使った料理中のこと。柔らかい頬をつるり
と撫でるだけにして、シンクの前に戻ることに何とか意志の力で成功する。
何度かそうした試練が繰り返された後、アスカは時計を見た。
時刻は十九時半。そろそろシンジが帰ってくる時間だ。
シンジが月に三回残業したら離婚する。
それが結婚当初に二人で、シンジにすれば一方的に取り決められた約束だ。
二人でつつましやかに暮らしていく分には困らないほどの恩給がエヴァンゲリオンの
パイロットとしての二人に出ているが、シンジが珍しく頑強に働くことにこだわった。
いわく、子供ができて、その子が私立の医学部に受かった時にどうするの? と。
四年間で三千万円から五千万円の学費は、今のままでは払えない。
神妙な顔つきそう言ったシンジの前で、アスカは鼻を鳴らすとこう言った。
『そうなったらそうなったで、そん時、考えればいいじゃん』
それから三日ほど喧々諤々、その激しさは周囲の人間が離婚の危機かと心配するほど
だったが、なんだかんだでこの夫婦、一度決めたら梃子でも動かないのは夫の方。
話し合いから四日目の夕暮れ時、夕飯の材料を買い終えて帰ってきたアスカが見つけ
たのはテーブルに置かれた一枚のメモだった。
『しばらくひとりになりたいので、さがさないでください』
ふん、と軽く鼻を鳴らて、紙を見た。
「アタシも甘く見られたものね」
アスカが面白くないのは、彼がいなくなったことではなく、置手紙の文字がすべて
ひらがなことによる。
「漢字くらいお茶の子さいさいよ」
誰もいない部屋で、アスカは一人ごちた。
当然のことながら、返事はない。
買ってきたものをスーパーの袋から冷蔵庫にしまいこむんだ彼女は、わざと足音を立
て、寝室に向かう。
ここもやはりというか、誰もいない。
すうっと深く息を吸い込み、アスカは口元に両手を当てた。
「アタシ、漢字けっこう読めるようになったんだけどー!」
押入れの中で、とさりと音がした。
それに少しだけ満足を覚え、アスカは夕飯の支度にかかる。
「っとに。気を使うとこはそこじゃないでしょうに」
アスカもシンジがここまでのラインに来たら折れてもいい、という線引きがあって、
それは今のようにシンジが押入れに立て篭もった時だ。
子供じゃないんだから、と多少の不満を覚えるし、こんなことで外で働けるのかしら
とも心配する。
昔は金のことなんて漠然としか考えられなかったがアスカだが、今ではスーパーの
チラシから底値を見つけるのも得意だし、一パック九十八円で売られる卵の争奪戦にも、
果敢に参戦するくらいには立派な主婦だ。
それでもあんまり先のことを考えて不安に思うのは違うというのが彼女の感覚でもあ
る。
もう仕方ないなー、とアスカはオムライス用の卵を焼きながらつぶやいた。
その後、アスカに押入れから引きずり出され、「しっかり食べて、それから篭りなさ
い!」と言われたシンジは、出されたオムライスの表面に、
『好き にすれば?』とケチャップで書かれているのを発見する。
譲歩したのだから、自分の要求を飲ませることも忘れないのがアスカだ。
アスカがシンジから取り付けた働くためのルールはシンプル。
・定時であがること。
・月に三回残業したら離婚。
以上の二点。
初めてそのルールを聞いたシンジは絶句した。
その困ったような顔を見て、アスカが思わず口走った言葉はというと、
「か、勘違いしないでよね! べ、別にアタシが寂しいからじゃないないんだからね!
アンタの為なんだからね!」
と、うっかり本音を言ってはみたものの、なぜか言われた側はすこぶる嬉しそうで、
頬を紅潮させたまま、力強く何度もうなずいていたのだ。
こうして、月に二回の残業しか許されない状況で、シンジは仕事をすることになる。
さて、今月はすでにシンジは二回残業している。
今日も遅く帰ってきたら、どうしてくれようかしら、とアスカは野菜を切る手に力を
込めた。
彼女にしてみればシンジがいつもより帰りが遅い時は、毎回ハラハラさせられている
のだ。なのに彼はというと、のほほんとした顔で帰ってくる。これは不公平というもの
だ。
思いつく方法は、『実家に帰らせていただきます』と置き手紙をし、ミライと一緒に
ミサトのところに行ってもみるのもいいかもしれない。
そんな不穏なことを考えていると。
階段を上がってくる足音がする。
それを耳にしたらしく、ミライが横を向き、ニヤーリと笑った。
まるで『チャーンス』と言わんばかりに。
その表情は、アスカが来日した際に見せた顔だったのだが、彼女の感想は違った。
「やだわー、もう。お義父さんの笑い方かしら。そんなとこマネしちゃって。もう家に
寄ってもらうのやめようかしら」
夫の父をばっさり斬る。
人間、自分のことが一番わからないものである。
「ただいまー」
帰宅したシンジの声は聞こえたが、いくら待ってもリビングに入ってこない。
待ちかねたミライは半べそをかき、小さな唇を尖らせ、足を踏みならしている。
「違うの? パパじゃなかったの?」
話すことができれば、そう言いたげな顔つきだが、アスカにそれは伝わらない。
残念ながら、彼女に碇ユイの遺伝子はないからだ。
っとに。心の中で舌打ちして、アスカは娘を抱き上げた。
むーっと口を引き結んだ赤ん坊と目を合わせると、何かを確認するように、うなずい
てみせる。
「ミライ。行くわよ」
エプロンをばさりと投げ捨て、一歩二歩と跳躍し、リビングを横断する。
三歩目で玄関へと続くドアに辿り着き、勢いよく開くと、そこには洗面所で手を洗っ
ているシンジの姿がある。
振り向いたシンジは、アスカを見た途端、
「弐ご……」うき、までは言わなかったのは幸運である。
アスカは無言のまま、ジロリと目だけでシンジを捉える。
掌にもう一方の指先を当て、爪の間を丁寧に洗っている最中のようだ。
几帳面なのはいい。生真面目なのもいい。それらは全然構わない。
それでこそ、彼女のシンジだ。
しかし。
「アンタ、いつまで手ぇ洗ってんのよ!」
「え!? はい!」いきなり叱責され、シンジはそのままの姿勢で固まった。
しかし、それは一、二秒のこと。
「だって、外はバイキンだらけなんだよ? アスカ、僕らは大人だから抵抗力あるけど、
ミライには良くないんだ」
「それでもよ! 大事な娘が今か今かと待ってんのに! それを待たせるなんて!
それでもアンタ、パパァ?」
「あ、なんか懐かしい」
ほわんとした顔つきで何かを思い返しているシンジに、アスカは苛立ちを覚える。そ
ういえば、バカシンジなんて最近ののしっていなかった。
この男と一緒にいると、脱力させられてばかりだ。それでも肩肘はって生きていた
『あの頃』に戻りたいとは思わないし、今が一番幸せだと胸をはって言える。
「もういいわ。ほら」
首をかたむけ顔をつきだす妻の頬にシンジはキスをする。
彼女が言うには、
『朝に剃ってもまた髭が生えてるかもしれないでしょ! そんなんで娘にチューしたら、
嫌がられるわよ!』
だそうだが、自分で髭が伸びていないことは今日も確認済みのシンジだが、あえてそ
の事を告げることはない。
きゃらきゃらと笑う娘を見て、それからアスカと目を合わせる。
「ただいま」とシンジが言えば、「おかえり」とアスカが返す。
「今日も残業しないで帰ってきたよ」
シンジの言葉に、アスカは鼻を鳴らして返す。
「はん。アンタにしては上出来じゃない」
「これでも頑張って早く切り上げてきたんだよ」
「知ってるわよ。ほら、ミライが待ってるわよ」
赤ん坊をシンジに渡すと、何故だかくすぐったそうに彼は笑う。
「ところでさ、ミライはいつまで僕にチューさせてくれるかな?」
「小学校に上がるまでじゃないの?」
「そうなんだ……」少し寂しそうにうつむくが、それもほんの少しのこと。「でもさ、
アスカには、何十年経ってもするからね」
その一連の流れは、もうほぼ毎日繰り返されている行為であり、言葉である。それは
ひとえにアスカの教育の賜物なのだが、その言葉を聞くたびに、彼女の顔は朱に染まる。
「べ、別にアタシがして欲しいわけじゃないんだからね! ミライの為なんだから!」
妻の言葉にシンジはすこぶる嬉しそうで、彼も頬を紅潮させたまま、力強く何度
もうなずくのだった。
(了)