『シンプルライフ』 パラレルS
台所から、包丁が食材を刻む規則正しい音が室内へと広がってゆく。
その音の主は、碇家の主夫であるシンジだ。
キッチンテーブルのそばにはベビーチェアが一つある。
そこには水色の産着を着せられた赤ん坊が座っていて、期待に満ちた黒い目を、
父の背中に向けている。
赤ん坊は、包丁の音に合わせて声をあげる。
トントントン。
「あ! あー! あ!」
シンジは料理の手を止めず、赤ん坊に呼びかける。
「はいはーい。タクトー。ちょっと待っててねー。もうすぐおいしいご飯だよー」
彼が振り返ると、息子のタクトと目が合う。
それはくりくりとした輝く瞳で、いつ見てもシンジには銀河のように思える。
父子の繋がりというものは、母子とのそれに比べれば多少、弱いものだ。
それでも、わかりあおうとする努力さえ怠らなければ、何ということはない。
そのことについて、シンジは今もより確信を深めている。
彼の息子の声が理解できたように感じるからだ。
ベビーチェアの中で跳ねながら、「あー! あ! あー!」と話す赤ん坊の言葉が
シンジには、
『もうすぐご飯? それとも遊んでくれるの? お歌でもボクはいいよ?』
そう言っているように聞こえる。
もちろん、単音のみでそこまで効率の良い言語はこの世に存在しない。
しないが。
シンジにはそう聞こえているのだ。問題はない。
ベビーチェアについたテーブルに皿を並べると、タクトはご飯だと理解したらしく、
小さな拳をぶいぶい振り回して喜んだ。
「はーい。ご飯だからねー」
シンジが離乳食を一匙すくって口元まで運ぶと、タクトは小さな頭を寄せ、匙をくわ
える。
それをタクトが飲み込んだところで、自動式の玄関が深いため息のような音を上げて
開く音がした。
「ただいま〜」
リズミカルな足音とともに、帰ってきたのはアスカだ。他に家族はいないのだから
当たり前のことだが。
母の声を耳にした赤ん坊は満面の笑みを浮かべ、リビングから玄関へと続くドアに
顔を向ける。
ほころんだ彼の黒い瞳が、くりくりと動いた。
目は口ほどにものを言う。
最近になって、シンジはそれが真実だと知った。
現に今も、赤ん坊の目がシンジに向かって語らっている。
『お母さんだ! お母さんでしょ? この声はお母さんだよね!?』と。
はちゃあ、と花のように笑うタクトの黒髪をそっと撫でながら、少しシンジは寂しく
感じている。やっぱり母と子の繋がりって強いや、と感心もする。
「僕の方がタクトと一緒にいる時間長いんだけどなー」
もちろん、シンジにしてみれば、それはそれで全く構わないのだ。
その証拠に、彼の顔もほころんでいる。
ドアの向こうからアスカの声が聞こえる。
「さてと♪ 手を洗ってうがいしてー♪」
大変に機嫌がが良さそうで、彼女は自作の歌まで歌っている。
しかし、シンジは知っている。
彼の妻は手を洗っていない。もちろん、うがいもしていない。
でたらめな歌の直後に、ドアが開くのが彼の推理の根拠である。
「たっだいまー!」
リビングに入ってきた瞬間に、アスカは持っていたバッグをソファに放り投げ、その
まま一目散にタクトのところに駆け寄ると、タクトを抱き上げた。
すぽん、と音を立ててベビーチェアからタクトは離される。
「たっきゅーん」
シンジの妻は、んー、と音を立ててタクトの頬に吸いつき、
むちゅ、と一旦離れる。
「ただいまー」
んー、むちゅ。
「寂しくなかった?」
アスカはタクトと見つめあった後、三度目の、
んー、むちゅ。
「ママはねー」
んー、むちゅ。
「たっきゅんがどうしてるかなって思ったらー」
んー、むちゅ。
「居ても立ってもいられなくなっちゃったー」
来日当初から、アスカは少々古めの日本語ボキャブラリーが豊富だったが、最近は
さらに増加傾向にある。
「アスカ! 帰ってきたら、手を洗ってうがいをしてよ! 外はバイキンだらけなん
だよ!」
温厚なシンジではあるが、タクトのことになると多少人間が変わる。
彼の妻は一瞬たじろいだが、すぐに負けじと言い返す。
「何よ! こっちは一分一秒惜しんで帰ってきたってのに!」
文句を言いながらも、アスカのタクトに対するキスは止まらない。
すでにシンジが今日一日でタクトにした回数を上回っている。
シンジは考える。
タクト、ご飯中だったんだけどなー。ほっぺたもアスカの口紅で赤くなっちゃって。
仕方なしに、アスカの夕飯を暖め直そうとキッチンに向かう。
彼の妻が、キスの回数でダブルスコアをつけている音を背を受けながら。
■■■ ■■■ ■■■
風呂から上がったシンジが、頭を拭き拭き寝室に向かうと、そこは静寂で満たされて
いる。
規則正しい赤ん坊の寝息が、よりその静けさを強調する。
夫妻のベッドの上ではアスカはクッションに背中を預け、足を投げ出した姿勢で、
眠るタクトの横で本を読んでいるところだった。
その右手は、タオルケットにくるまって眠るタクトの手を包み込んでいて、左手は
というと器用にページをめくっている。
彼女が読んでいるのは推理小説で、ここ一年ほど彼女お気に入りのジャンルだ。
邪魔をしてはいけないと思い、シンジはそっと寝室に入った。
「お風呂あがったの?」
静かにしていたつもりだったが、彼女はシンジ専用のレーダーでも搭載しているのか、
気配で察知しているのか、こうした時に必ず気づく。
相変わらず視線はページに向けられているし、右手はタクトとつないだままだ。
「ああ。うん」
シンジが簡潔に答えると、アスカはページをめくりながら言った。
「待ってて、これもうちょっとで出題編が終わるからさ」
「いや、ゆっくり読んでていいよ」
まだ少年と少女だった頃から二人は一緒に暮らしていた。そこからもうかれこれ人生
の半分以上、一緒に暮らしているわけだ。結婚した今はあの時よりも一緒にいる時間は
確実に減ってしまったが、あの時よりも繋がりは強くなったはずだ。
そんなことをシンジが考えていると、
「あら?」という彼女の声がした。
「どうしたの?」思わず近寄る。
「ん。図書館で借りた本に、こんなメモが挟まってたのよね」そう言って、アスカは
手にした紙切れをぴらぴらと振った。「アンタ、なんか知ってる?」
「これ?」
手渡されたメモをみる。縦が十センチ少しの長さで、横は三、四センチという、栞よ
り縦の長さが短い紙だ。
紙の縁の部分にうっすらと黒い筋が通っている辺が、縦と横に一つずつ。
表面には、
『図書館警察が
見ていますよ』
と二行に分かれた文章が書かれているが、コピーされたもののようで、文字が毛羽
立っている。
何だろうこれは、とシンジは裏返してみるが、そちらに何も書かれていない。
「僕もわからないな」
そう言って、シンジはメモをアスカに返す。
「ふーん。それさ、どういう意味だと思う?」
以前は仕事一本のアスカだったが、何か心理的な作用が働いたのか、妊娠を期に小説
を読み始めた。今まで読む本といえば学術書や実用書ばかりだったのだが、たまたま読
んだミステリに『読者への挑戦』があった。
挑戦されて燃えないようであるならば、それはシンジの知るアスカではない。
一度は解決編の手前まで進んだにも関わらず、彼女は再び丹念に読み返した。新聞に
入るチラシの裏を利用して、気づいた点や考えたことを書き留めるほどの情熱のかけよ
うである。
推理小説を図書館で借りるのは、シンジの役目だ。
買ってもいいんだよ、とシンジは言っているだが、一度読んだら犯人もトリックもわ
かってしまい、二度読まないので勿体ないと彼女は言う。
その図書館で借りてきた本にメモが挟まっていたらしい。
シンジにも経験がある。図書館の蔵書は不特定多数が利用するものなので、栞や
レシートが挟まったままになっているときがあるのだ。まれに夕飯のおつかいのメモ
なども。
仰向けに寝転んで読んでいると、顔に向かってはらりとそれが落ちてきて、思わず
目をつむったりすることもある。
しかし、こうしたメモは初めて見た。
「ねえ。誰がそのメモを挟んだんだと思う?」
「誰だろうね」シンジも首をかしげた。
「誘拐犯が身代金要求の手紙とか?」きらり、と青い瞳が光を放ち、ニヤーリと笑う。
自分の推理力を試すチャーンス、とでも考えているのだろう。
ミステリを読んでいるからか、そうした発想が出てくるのだろうとシンジは推測する。
「そんなまさか。誰が手に取るかわからないのに」
「それもそうよね。図書館警察って犯罪者が名乗らないだろうし」
元から自分でも正解と考えていなかったようで、アスカはあっさりと頷いた。
読みかけていた推理小説に栞を挟み、彼女はそれを傍らに置くと、タクトをそっと
抱き上げる。
よっこらせ、と小さくつぶやくのがシンジの耳に聞こえたが、あえてその事を告げる
ことはない。
うふふ、とタクトが寝ながら笑った。
夕飯後、就寝までの二、三時間。これが一日のうちで唯一、二人だけの時間だし、
どんな会話であっても、二人にとっては貴重な時間だ。
それがよくわからないメモの話だとしても、こうした他愛ない会話が重要なのだと、
シンジは考えている。
二人で同じことをするということが。
「じゃあ、アンタはどう思うの。このメモの意味、それと書いた人は誰か。思いつく?」
「そう言われてもなあ」頭をかきかき、天井を見上げる。しかし、そこに答えが書いて
あるわけもないので、自分で考えないといけない。
「別にさ、絶対に正解にたどり着きたいとかじゃないのよ。遊びよ遊び。このメモを書
いたのはどんな人で、どういうつもりでこのメモを書いたのか想像するのって、楽しく
ない?」
アスカにそう言われたら、シンジとしては真剣に考えざるをえない。
「そうだね」そこでシンジは軽く息を吸い込んだ。アスカの匂いがするような気がして、
少し彼は照れる。
「えーと。あるグループが連絡の手段として、その本を使ってるとか」
「面白そうじゃない。それで?」
「メモが受け手に回る前にアスカが借りたとか」
「そこなのよねー」
肩からずり落ちそうになるタクトを担ぎなおし、アスカは言った。
「連絡手段と言ってもさ、他の人に見られたら意味ないと思うのよ」
「じゃあ、あれかな。見られても良かったんだよ」
「なんで?」
「たとえば、そこの家族にしか通じない言葉ってあったりするよね。アスカもたまに
あるじゃない。アレ取ってとかさ」
それでアタシが何を求めてるか察知するアンタも凄いわ、とアスカは内心舌を巻く。
そんな妻の考えは察知できなかったようで、シンジは続ける。こうしたことは閃きを
待つより、どんどん言葉にしていった方が、案外良いアイディアが浮かぶものだ。
「ここに書いてある『図書館警察』っていうのはさ、たぶんその家族だけに通じる言葉
ななんじゃないかな」
「てことは、会社の同僚でもいいし、趣味のグループが書いたメモである可能性もある
わけね」
「そうなるかな?」
「むー」アスカは口をとがらせた。「もうちょっと絞り込めないかしら」
「あと考えられるとすれば、その人はケータイやパソコンを持ってないか、もしくは
頻繁に使える環境にいないんじゃないかな。使えるなら、そっちの方が無関係な人に
見られるリスクは低い筈だからね」
アスカはうなずいた。
「なるほど、それはあるかも」
世界中が徐々にであるが復興しつつある2020年代、どの世代も携帯電話やパソコ
ンを使う知識は持っているが、普及率はテレビや冷蔵庫に比べると幾分か低い。
連絡手段として、駅や銀行の掲示板が今では当たり前のように復活している。
公共施設である図書館も、前世紀の貸し出しカードに逆戻りだ。
「職場の基準で考えたらダメってことねー」
「ダメなことはないと思うよ。けどね、たぶん、この送り主はそういう環境にいないっ
てだけなんだろうね」
「それにしても、どうして駅なんかの掲示板を使わないのかしら」赤ん坊の背中を撫で
つつ、アスカはつぶやいた。「そっか。もしかしたら、図書館じゃなきゃいけない理由
があるのかもしれないわね」
その言葉で、何かが引っかかったような気がして、シンジは思わず口をついた。
「それとも、本そのものにあるのかもしれないよ」
「え?」思わず、アスカは横に置いた本を見た。
「今思ったんだけどさ。その本は推理小説だよね。推理小説の楽しみといえば?」
アスカは軽く顎をあげ、宣言する。「そりゃあ、犯人当てでしょうよ。解決編を
読む前に犯人を見破ったら、作者に勝った! って思うわ」
「だよね? そうだとして話を進めるとさ、例えば、途中のページに犯人の名前を書い
ちゃう悪い奴がいるとして」
「何よそれ! そんな奴がいたら、アタシがギッタギタにしてやるわ!」
「アスカ、落ち着いて。タクトが起きちゃうよ」
ふんふんと鼻息を荒くしていたアスカだがタクトの名前が出てきたことで、少し平静
を取り戻したようだ。
「まあ、そういう奴がいたとしてさ、それをちゃんと注意できればいいけど、誰がやっ
たかわからないよね」
「そんなの貸し出しカードを見れば一発じゃない」
「一人一人に聞いて回るの? 『本に犯人の名前を書きましたか』って?」
「そうよ。そんで『違う』って言われたら、その前に借りた人のとこに行ってを繰り
返せば、最後に残ったのが犯人よ!」
うふふ、とアスカが笑った。
タクトのように嬉しくて笑うという快活さは一切なく、何かしら心の澱みに突き動か
されたような笑い方だった。
さらには誰に言うとも無く、『弐号機って、まだアタシ乗れるかしら』という声まで
聞こえたので、シンジには慌てた。
「いったん落ち着こうよ。ね? だいたい、乱暴すぎるよ。もっと論理的に考えようよ」
「じゃあ、どうすんのよ。今も被害者は増え続けてるかもしれないのよ!」
仮定の話に仮定の話で返されると、シンジも困ってしまう。
「そうだね……」うつむき加減に床を見るが、そこに答えは書いてないので、シンジ
自身が考えるしかない。
「アスカの言うとおり、貸し出しカードを調べるのはいい案だと思う」
あえて、アスカと話を合わせ、完全には否定しないように気を配る。が、少し気に
なる点がまだある。
「でもなあ、犯人を書き込むような人がいるとするよね。貸し出し手続きしてから書き
込みするかな。証拠が残っちゃうよね」話しているうちに別の可能性が見つかる。
「ああ、そうか。図書館内で書けばいいんだ。トイレの個室とかでさ」
「それじゃ犯人を突き止められないじゃない」
「だから、このメモを書いたんじゃないかな。誰かわからない犯人を牽制するメッセー
ジだよ。そういうイタズラはやめてくれっていうさ」
「でも、これ一冊だけにメモしてもねー」
むー、とアスカが口をへの字に曲げた。あばたもえくぼ、それがシンジの目には微笑
ましく映る。
「え? 違うよ。たぶん、推理小説にはできるだけ入れてると思うんだ。そのメモ、端
のとこにうっすら黒い線が入ってるよね?」
「あ。ホントだわ」メモを手に取り、アスカはしげしげとメモを見る。
「ノートに線を書いてさ、何度も同じ内容を書いて、コピーして、それを切って入れて
るんだと思うよ」
「んー。なんだかその人も執念もなんだか怖いわね」
そう言うとアスカは、自分の腕の中で眠る赤ん坊をそっと抱きしめた。
どっちが甘えてるんだか、甘やかしてるんだかわかんないね、とシンジは思いつつも、
やはり微笑んでしまう。それは自分も随分と当てはまることでもあるし。
「まあ、それだけ、推理小説には人を本気にさせる何かがあるってことじゃない?」
「それで、そのメモの主の努力は認めるにしてもよ? 犯行を止められるとでも思っ
てんのかしら」
「思ってないんじゃないかな。それでもさ、たとえば、他の人や司書さんが気づくかも
しれないよね」
「なるほどね〜。じゃ、この栞は元に戻しとこっかな」
うむうむと頷いたアスカは、肩でタクトを支えつつ、器用な手つきで本に栞を挟んだ。
「それはそうとさ、シンジぃ」
アスカの甘い声音に、シンジは背筋がゾクゾクするのを感じてしまうのを止められな
い。もう何百回何千回と聞いているにも関わらずだ。
「な、なにかな?」思わず、声が上擦ってしまう。
そう言えば、明日、アスカは休みのはずだ。ということは今晩遅くまで起きていて
いいわけで。
タクトは寝ていて、あと数時間は起きないはずだ。
これはアレだよね。きっとそういうことだよね。
もう幾度となく繰り返されている二人の行為のはずなのに、シンジはそわそわして
しまう。
「この本、もうすぐ読み終わるからさ、この作家さんの本、他の借りてきてくれる?」
そっちかー。そっちだったかー。と、シンジはかなり残念だが、表情は上手いこと
笑顔になることに成功する。
「トリックもなかなか難しくて解き甲斐あって、探偵も言うことが面白いんだけどさ、
やっぱ助手よねー」
「そうなんだ」フィクションのキャラクターであるとわかっていても、少しばかりシン
ジは面白くない。
「うん。探偵に無理難題を吹っかけられて、あたふたする様がねー。面白いのよ」
それは他人事じゃないな、とシンジは思った。確かに、今アスカが読んでいる推理小
説の助手は彼と境遇が似ているのだ。天才とそれに振り回される助手という関係が。
その状況に不満があるわけではない。むしろ幸福であると胸をはって言える。
しかし、それでもだ。
自分はこの先ずっとアスカのために炊事洗濯をして、タクトを育てて、それが一生
続くのかと思うと、寂しく感じることが稀にあるのだ。
それをアスカに言う気は彼に無いし、きっと贅沢な悩みなのだろうとも考えている。
そんな考えにとらわれていたのは、彼にしてみればほんの数秒のことのはずだった
が、ふと我に返ればアスカの姿が消えている。
どこに行ったのかと探すと、二人の寝室とタクトの寝室を分かつふすまが開いて、
アスカが出てくるところだった。
シンジと目が合うと、彼女はまたも甘い声を出した。
「シンジぃ。今日はアタシ、夜更かしできるんだけどなー」
その声を聞いただけでシンジのすべての悩みはどこかに溶け、どこかへ流れ去って
しまう。
彼に限らず、男というものは単純にできているものなのである。
■■■ ■■■ ■■■
翌週末、午前中で洗濯を終わらせたシンジは、タクトに声をかけた。
「タクト。おんも行くよー」
それまで退屈のあまり、一人静かに左手の拳をかじっていたタクトだったが、途端に
機嫌が直る。
きゃらきゃら笑い、両腕をぶいぶい振り回すシンジの息子の目が語らっているように
シンジには見える。
『抱っこ? 抱っこしてして!』と。
「ごめんごめん。退屈だったよね。抱っこするし、おんもも行くんだよー」
『おんも』という言葉を自分はどこで知ったのだろうとシンジは考えたことがあって、
それはいつの事だったのか思い出せない。
いつだったか、その話をアスカに話したことがあるんだが、彼女は事も無げに、
『そんなの簡単じゃん。アンタのお母さんに言われたんでしょ』
と言った。
過去を想うと、やはり去り行く父の背中が浮かび上がってきて、彼はやるせなくなる。
それでも。
自分でも忘れていた子供時代、確かに自分は愛されていたのだと思い、そのことを
教えてくれた彼女と巡り会った。
そう思ったら何故かシンジは涙が止まらなくなったのだが、彼の様子を見て気持ちが
高まったらしく、ふんふんと鼻を鳴らすアスカの胸に抱きしめられた。
そのままシンジは脳天にキスされた。脳天に頬ずりされた。脳天に鼻を押し付けられ
た。
ここまで言うと、アスカは脳天マニアのように思えるが、実際は違う。
単にシンジマニアなだけだ。
人間、感極まると、脳天に体の色々な部位を押し付けたくなるものなのだ。
図書館に行くのはシンジの役目だ。本当は彼の妻が自分で行ければ一番良い。何か
良さそうな本はないかと探すのは、図書館の醍醐味の一つだ。
しかし、朝は早いし夜だって遅いこともある。何より、アスカは一秒も早く帰宅して
タクトと一緒にいたいはずだ。
まずはアスカに頼まれた推理小説のシリーズ、続きを借りなきゃね。でもなあ、あの
助手の人、シリーズ後半の五十代に入ると、田山花袋の『蒲団』みたいなことになるん
だよなあ。
まあ、いいか。適当なところで、他の作品に切り替えてもらおう。
そう思いつつ、シンジは小説のコーナーへと歩く。
図書館の小説が並ぶ書架は、シンジにとって、旅行代理店の陳列されたパンフレット
のようなものだ。
もしくは夏への扉そのものである。開けばそこは、胸躍る南国の海岸が待っている。
これからどこへ旅立とうかという心情と、何か面白い本はないものかと探す時の心情
は、よく似ているとシンジは考えているし、その楽しみをアスカと共有できている僕は
幸せ者だ、とも感じている。
抱っこ紐の中で、タクトが小さくうなる。
暇なの、退屈なの、何とかして、という抗議である。
辺りを気にしつつ、シンジは小声で謝った。
「ごめんごめんごめん」
しかし、小さい背中を撫で、丸い尻を撫で、あとは目を合わせて笑ってみせれば済む
のだから、赤ん坊というものも結構単純である。
もしかすると、人間というものは、存在自体が単純なものなのかもしれない。
サ行の書架から目当ての本を一冊取り出し、さて、他の本も探そうかといったところ
で、シンジは『それ』に気がついた。
書棚に一枚の張り紙がされている。
その内容を読んだシンジは一人でうなずいた。
貼り紙には『図書館の本は皆のものです。書き込みはやめてください』と書かれていた。
図書館から出ると、太陽は空の真ん中におり、まだまだ傾く気配はない。
今日は、まだ半分も終わっていない。
童謡を親子二人で歌いながらの帰り道、シンジはふとタクトに語りかけてみた。
「あんなにアスカが喜ぶならさ、パパも推理小説、書いてみようかな。タクトはどう
思う?」
シンジに抱っこされたタクトが満足そうに、うふふ、と笑った。
それが、『書いてみたら? ママもきっと喜ぶよ』と言っているように聞こえた。
それでシンジは、推理小説を書いてみることにしたのである。
(了)