平常心。
それが座右の銘であるイカリ・シンジだが、ときたま、自分はこのままで良いのか、
と考えることはある。
魔法使いの弟子という自分の境遇に、疑問を持ったときなどは特に。
村はずれの小高い丘の上に立つあばらや、そこに住まうの魔法使いのミサトに弟子入り
してから四年。魔法の手ほどきを受けたことは一度としてない。
彼の師匠は飲んだくれのろくでなしだ。しかし、
魔法使いというくらいだから、魔法を使う
ことを生業としているのだろうが、この家に満足に金があった試しなどない。
仕方なく、妹のレイと村まで降りては、こまごまとした仕事を手伝い、小銭を稼いだりして
いるが、夕暮れ時、満面の笑みで待ち構えた師匠の掌に小銭は吸い寄せられてしまう。
残るのは、なんとかパンとスープが買える程度。
師匠を出し抜いて食料を買い込めばいいようなものだが、なぜかシンジにその考えが浮
かばない。そこまで要領が良ければ、魔法使いの弟子などしていないということだろう。
■■■ ■■■ ■■■
家の扉が叩かれた時、シンジはやっと手に入れた静寂の中、
魔術書を開いていた。
午前中に家事をこなしてある。今日は村の仕事を手伝わなくても、なんとか夕飯には
ありつけそうだった。
そうした時間に余裕のあるとき、碇シンジは師匠の蔵書である魔術書を読むようにして
いる。
はじめは何が書いてあるか、さっぱりわからなかったが、今では感覚で多少のあたりを
つけることができるようになっていた。
分厚い黒檀のテーブル上に魔術書を広げ、黙々と読みつづける。
複雑な線で構成される魔文字は、光沢を放っている。時に燃えさかる炎のようにはじけ、
花が開いたときの柔らかい曲線を描いていて、同じ位相にとどまり続ける文字は一つとし
てない。
時々、ページの表面が泡立つ様は、まるで文字たちが呼吸をしているかのようだ。
その文を理解し、イメージできるまで繰り返し凝視し、音をつぶやく。本人は気づいて
いないが、右手が緩やかなテンポで結んでは開いているのは、集中したときの
癖だ。
彼の隣に妹のレイが椅子を持ってきて座っている。青みがかった銀色の前髪から
のぞく赤い瞳は、開かれたページを見つめている。
頭から顔の右半分に巻かれた包帯は痛々しく見えるが、彼女は意に介する様子もなく、
両の掌を腿の上に乗せ、兄と同じく熱心に書物を見つめつづける。
魔文字の中には活発なものもいて、勝手に上だの下だのの行に割り込もうとするものが
いれば、ページから脱走しようと浮き出てくるものもいる。それらを捕まえては元いた場所
に戻したり、ページに押し込むのが、レイの仕事だ。
時折、彼女の赤い虹彩が瞳の中、ゆらり、くるり、と揺れている。
家の外では、まだ太陽は天高く鎮座しているというのに、彼の師匠は奥の部屋に引きこ
もっている。今ごろは酒瓶を抱えこみ、眠りについた頃だろう。せめて中身は飲みきってい
て欲しいものだとシンジは思う。でないと後片付けをするのは彼しかいないのであり、酒の
染みこんだシーツを洗うよりは、乾いたシーツの方が、手間がかからない。
起きている間の師匠は、
やれ部屋の隅までぴかぴかに磨き上げろだの、水を汲んで来
いだの、薪を割っておけだのと口やかましく、そのくせに何時まで経ってもシンジに魔法を
教える素振りは一向に見せない。
「魔法使いは徒弟制度なのよねん」とは、シンジの師匠、カツラギ・ミサトの弁。
シンジにしてみれば、
父親にていよく厄介払いされたとしか思えない。
だから、彼に出来ることと言えば、おとなしく言うことを聞き、暇を見つけては師匠の家の
本棚にある魔術書を読むことくらいのものだ。
町で召喚術の研究者をしている父に『いけ』と言われ、素直に従ったのがいけなかった。
指折り数えてみれば、いつしか四年の年月が経ち、彼は十四才になっている。
このままではいけないと彼自身も思うわけだが、さりとて良い考えが浮かぶわけでなし。
飛び出そうにも、妹のレイを置いてゆくわけにもいかず、気づけば料理の腕と酔っ払いを
あやすことだけは上手くなっていた。
身についた魔法は、一つしかない。四年で一つきりだ。これでは、修行が終わるのが
先か、寿命が来るのが先かということになる。
レイが顔を上げるのと、誰かが焦ったように家の扉を叩くのとは同時だった。
彼女の顔には、静寂を破った者に対する非難の色が見える気もしたが、元来、表情に
乏しい彼の妹は、今も無表情だ。赤い左目が扉を凝視し始めた。
「レイ」それが何を意味するのか知っているシンジは穏やかに、そして優しく声をかけた。
彼女のレッドアイは危険だからだ。
邪眼、またはイビルアイ。それには三種類あって、ブラックアイ、ホワイトアイ。そしてレイ
のような
レッドアイ。凝視させるものを発火させる瞳こそが、レッドアイと呼ばれる。どうして
彼女の瞳がそうなったのか兄であるシンジには見当もつかない。
何かの罰と言う者もいるが、彼はそんな言葉を信じない。どんな罪だろうと、彼の大事な
妹が犯したわけはないと信じるだけだ。
名前を呼ばれたレイが返事をしないのを見て、もう一度、その名を呼ぶ。
「レイ?」
怒っているわけではないシンジは、そのことを伝えるため、声音でそれと伝えたはずだっ
たが、当人はそう感じなかったらしい。視線を扉から外し、うつむくと今度は上目づかいに
彼を見る。
「大丈夫。僕は怒ってないよ?」
自分の気持ちが誤解なく伝わるようにとシンジは笑顔を向け、妹の手に自分の手を柔ら
かく重ねる。
「でも、気をつけようね?」
照れているのか恥ずかしいのか、顔を赤くしたレイが居心地悪そうにもじもじしている。
シンジが触れた方の手を反対の手で包むように揉みはじめるのと、再び扉が叩かれるの
が同時だった。
どうやら今日は、真に黒い街がうごめき始めているらしい。シンクロニシティという言葉な
ど、シンジはもとから知らなかったが。もとより魔法世界は人間界と紙一重の差。
本を閉じると、魚が跳ねる時の音を立て、ページが小さく飛沫をあげた。
シンジはため息をついて立ちあがった。他にすることがないと言ってしまえばそれまで
だが、魔法の勉強をしている時は、息をすることさえ忘れそうだ。
「今日の勉強はここまでかな」
独り言のように言ってから、同意を求めるように微笑むと、レイが黙ってうなずいた。
魔術書の印象を問われてみれば、『分厚く古めかしいもの』という印象が強いかもしれ
ない。だが、それは必要条件でも十分条件でもないことを知らない者が多いことも、
また事実だ。
本は開かなければ、その用を為さないところが、扉と似ている。魔術書は魔法の世界
とこちらの世界を連結するものでなければならない。そして、魔法世界とは液体で構成さ
れている。
そのことをもって、ミサトの蔵書である魔術書の数々は、真に魔術書たるといえた。
シンジは席を立ち、かすがい型の、つまりは角張ったU字型の引き手に手をかける。
大陸の最南端に位置する
この国の、さらに南部に位置するこの村は、冬という言葉が
言葉の上でしか存在しない場所だから、年中暑い。扉を開けたシンジの体に、ぬめるよう
な熱気が覆い被さってくる。なんとか今回も上手く扉を開けられたと、誰にだか何にだか
知らないが、シンジは感謝する。
シンジが師事する女性は、どうにもだらしなく、無類の酒のみで、酔った勢いで魔法を
そこかしこにかける。さらに酔っ払った際に使った魔法を一切覚えていないのだから始末
が悪い。
げんに今シンジが開いた扉も、ミサトの魔法が掛けられている。
彼女が言うにはトポロ爺の暗陰の壷に連結されたとかで、以前にシンジが扉を開けると、
その先には自分に背を向けたシンジ自身が立っている。
振りかえるとそこにも扉を開けた自分の姿が見え、そちらの自分も首をひねって後ろを
見ていて、その向こうにはまた扉がある。
そこでも振りかえっている自分が小さく見え、さらにその向こうにも自分の背後を見る
シンジがいるという、合わせ鏡の状況に陥るなどと言うことは、数えるのも嫌になるほどあ
るのだ。
シンジが扉を開けると、外には村長のコウゾウが立っていた。
村長はいかめしい顔を引き結んでいる。その後ろには付き従うように村の若者、
シゲルとマコトもいた。
ぴょこぴょこと跳ねる赤いものが目に入る。確認しなくてもシンジにはわかる。アスカも
来ているわけだ。
「先生はいるかね?」思いつめた顔を隠そうともせず、村長が言う。
「先ほど眠ったところです」
そうシンジが答えると、初老の村長は落胆の色をあらわにする。
「そうか……」コウゾウは後ろを振り返り、マコトが手に下げていた酒瓶を残念そうに
見つめた。「先生にお願いしたいことがあったのだが……」
酒瓶の存在に気づいたシンジも答える。
「さっき寝入ったばかりですから、今起こすのはちょっと待った方がいいですよ」
繰り返しになるかもしれないが、先生というのはシンジの師匠のことで、ミサトという。見
た目は妙齢の女性であるのだが、魔法使いの言うことは、たいがいあてにならない。確か
に肩まで伸ばした髪は黒々として艶めいているし、物腰も柔らかさの中に溌剌としたもの
がある。
けれど、人に年を訊かれるたびに、
「
24才と54ヶ月」
そう答えるのはどうかとシンジは思うのだ。女性に年を尋ねる相手も相手だと思うが、
そういった輩が持っていた弁当の中身をカエルに変えたり、飼っている鶏が一日中奇声を
発するような魔法をかけるのはどうかとも思う。師匠の機嫌を直すためにその都度、酒を
買いに走るのはシンジなのだから。
「この音が、聞こえるかね?」
家が小さく軋んだ。注意していないと聞こえないほどの、子犬の鼻息程度で吹き飛びそう
な小さな音だ。だが、耳を澄ましたシンジの耳にも確かに聞こえる。
その音は、それでも己の存在を聞くものに知らしめていた。
「何かあったんですか?」
「君は、魔竜を知っているかね?」面白くもないといった顔で、コウゾウが答えた。
「質問に質問で答える。それは答えと言えないわ」
皮肉った妹に向かってシンジは首を振り、今度ばかりはとがめた。「レイ?」
もちろん、妹が萎縮しない程度には気を使ったつもりだ。それに、質問に質問で答えた
のは、自分の方が先だということもある。
そして、村長に向き直った。
「魔竜ですか? 知ってますよ」
この国の人間なら誰でも知っている。親が子供に寝物語に聞かせる話だ。
しかし、
魔竜という名前は誰がつけたのか。
竜が魔であるのは自明の理ではあるのだが、それでもなお『魔竜』と名づけられるのは、
悪魔たちが
悪魔卿アデスを『猟奇アデス』と呼ぶのに似ているのかもしれない。
悪魔ですら猟奇と呼ぶ行いの悪魔。
魔である竜の中でも、あえて魔竜と呼ばれる竜。
そういったものたちは、例えば神話の中、伝説の中、人々の脳内にのみ発露する夢で
あったし、そんな土壌でしか咲かない花であるはずだった。
しかし、事実はそうではないことを、シンジは魔法使いの弟子になってから知ることにな
る。というよりも、嫌というほど思い知らされた。
「この音が、魔竜だというんですか?」
シンジの問いに、コウゾウが面白くもないといった顔でうなずく。
「先ほど岬の灯台守りから連絡が入ってね。魔竜はあと数時間で、上陸するだろうとのこ
とだよ」目をつむって、村長は首を振った。「奴の目的がなんだが知らないが、ゆっくりと
北上中だそうだ」
「ということは・・・・・・」
シンジはそこまで言って、マコトの持つ酒瓶を見た。岬の灯台は村の南に位置し、そして
ミサトは大の酒好きだ。ということは、つまり。
「このままだと村は魔竜に踏み荒らされてしまうことが予想されるのでね。何とかならない
ものかと
先生に相談したかったんだが……」
「お酒を飲んだあとの先生はたちが悪いですからね……」
シンジは一人うなずいて言った後、コウゾウは目を合わせ。二人揃って、諦めと共にた
め息をつき、慰めあう様にうなずいた。
確かにたちが悪いのだ。ミサトという魔法使いは、常日頃から矢鱈めったら精神が高揚
している女性だ。
シンジに雑用を押し付けるときはニヤニヤ笑うし、にししと笑う。わざとシンジを困らせる
ことを言い、それをシンジが顔に出せば、あははと笑うし、更には指をさしては、ぎゃはは
と笑う。一人の人間が、ここまで多種に渡る笑い方ができるとは、正直シンジには信じら
れなかった。
そこに酒の力が加わると、理性があきれるほど皆無になる。
もとより本能に薄紙一枚をかけた程度の理性だとしても、無いよりはましである。その
本能が剥き出しになると、どうなるか。
ミサトの場合、幼児性が現れる。ようするに、好奇心と集中力が異様なまでに高まる。
すぐに泣く。癇癪を起こすようにもなる。
例えて言うならば、しらふのときには高音のみで構成される楽曲に、重い低音が加わる
ようなもので、つまりは高音と低音が混ざり合う形になるわけだ。調和するのではなく、
共鳴する形で。
互いが互いの波形を拡大し、伸張させる。当然、しらふである時よりも扱いが難しくなる。
一番最近の例では、こうだ。
■■■ ■■■ ■■■
相も変わらず昼から酒を飲んでいたミサトだが、組んでいた足を戻すと、突如立ち上がった。
ミサトが飼うペットに餌をやっていたシンジは、その手をとめた。魔法瓶の中からマック
スウェルの悪魔が手を伸ばし、彼の手から食パンの耳をひったくった。
レイは壁に吊るされた
マンドラゴラたちに、
(歌う変わり大根も混ざってはいるが、それはともかく、全員太っちょなのは変わり無い。)
魔法童謡『十人の殺人鬼』を歌っていたのだが、横目でミサトを見る。もちろん途中で歌を
やめるとマンドラゴラたちの機嫌が悪くなるので、歌は澱みなく続き、二人目の殺人鬼が
マサカリで犠牲者の頭をかち割った後、三人目の殺人鬼が屋根の上から縛り首用のロー
プを鼻歌まじりに垂らしたところだった。
マンドラゴラたちは特にこの三番目が特にお気に入りのようで、一緒になって歌っている。
まさしく仁王立ちのまま何もない中空をにらみつけるミサトに、シンジは刺激しないよう
細心の注意をはらって声をかけた。
「どうかしたんですか?」
「え? うん」そこでやっとミサトは見られていることに気づいたようだった。「レイも、そろそ
ろかなって」
『……何が?』
と、頭の中で疑問符が浮かんだシンジには構わず、ミサトはおもむろにレイへと歩み寄
り、顔を覗き込んだ。自分の目がレッドアイである自覚があるレイは、師匠の顔から視線を
はずした。
しばらくの後、ミサトが言った。
「やっぱりねー。あたしの思った通りだわん」
うきうきとした足取りで、ミサトは自室に姿を消した。
何がそろそろなのか、聞くだけ無駄なことをシンジは知っている。
せいぜいこれ以上、仕事が増えないで欲しい。それが彼の正直な感想である。
部屋から出てきたミサトは、手に白い包帯を持っていた。その表面には魔文字が書き記
されている。不吉な予感を覚えたのは、単にシンジの勘ではない。経験則からきたものだ。
「じゃ、二、三日これ巻いときましょう」
押し黙ったまま、レイが立ちつくすのを良いことに、ミサトはくるくると包帯をシンジの妹に
巻きつけた。
「これじゃ、片方、見えない」
レイなりの抗議であるらしいが、兄妹たちの師匠に聞く耳はついていないようだった。
「それじゃ、ちょっと出てくるからー。あとはよろしくねーん」
この暑い陽気だというのに、そそくさと黒いマントを着こむと、シンジとレイに手を振る。
「じゃ、いってきまーす」
「いってらっしゃい」
再び嫌な予感がするが、シンジは何も言わない。当たり前だ。酔っ払った師匠に意見す
るなど、岩に向かって真実を告げるのと何も変わらない。
正味の話、
彼女がいない方が家事がはかどる、ということもある。なにせ、魔法使いと
いう輩、片付けというものがまったくできないときている。
飲み終えて空になった酒瓶はそのまま。書きかけの羊皮紙は丸めて放り投げる。シンジ
とレイが初めてこの家に来たとき、本棚は本棚として機能していなかった。ミサトが歩くたび、
ゴミが増えるのは、これも魔法なのかとシンジが首を傾げるほどだ。
兎にも角にも、これで家事がはかどるな、とは心に思っても、決して彼には口にできない
台詞である。
その後、時間にして二時間と半。シンジが部屋の掃除に薪割りと、仕事に精を出してい
ると、赤みがかった長い髪をなびかせ、アスカが丘を駆け上がってきた。
彼女の存在に気づいたシンジが軽く手を挙げる。
「おはよう、アスカ」
「ちょっと、あんた! 何やってんのよ!」息が切れていないのは、活発な彼女らしい。
鉈を杖代わりに体をもたせかけ、シンジは手を止める。
「何って、薪割りだけど?」
「あんたバカぁ? そんなことしてる場合じゃないでしょう!」
いきなりやってきて、あんたバカぁも無い。だいたいにしてアスカという少女、シンジが理
解するには難しい言動が多い。
村の酒屋の娘であるアスカは月に一度、ツケになっている酒代の集金にやってくる。
ミサトの財布に銀貨の二、三枚が入っていればしめたものだが、そんなことはまずない。
ゲトゥムの猟犬さながらに、シンジとレイは必死になって家捜しするが、どうしても飲み代に
足りないときがたびたびある。
というか、毎回そうだ。
そんなとき、この溌剌とした少女は目ざとく銀貨を見つけるのだ。
「ほら、ここに銀貨が一枚落ちてるじゃない。ったく、もう。手間かけさせないでよね」と。
こんなとき、シンジは彼女も実は魔法使いなのではないかと思うのだ。何故なら、アスカ
が銀貨を拾い上げた場所は、何度も彼自身が探した場所なのだから。
だいたいにして、その後に口にするアスカの言葉も、シンジにはわけがわからない。
「ホント、しっかりしてよね。こんなことばっかりじゃ、アタシのお小遣いなくなっちゃうわ」
彼女のお小遣いと師匠の飲み代に如何なる因果関係があるのか。単なる魔法使いの
弟子であるシンジには預かり知らぬところであるが、言うべき言葉は知っている。
「うん。ごめんね。ありがとう」
「ほんとよ」
何故だか誇らしげに鼻をぴすぴす動かすアスカを、ことの真実を知るレイだけは、少々
羨ましそうに見ている。
そんなことが度々あるのだ。
で、だ。現れたアスカが何を言っているのかとシンジが見返すと、彼女は腰に手を当て
るとシンジを指さした。
「ミサトよ、ミサト! あんたの師匠、どうなってんのよ! 村に降りて来たと思ったら、そこ
ら中に魔法を巻き散らかしてんのよ!」
「え?」ミサトが出かけたので、家事がはかどるな、と思っていたシンジは、あらぬ方向か
らの邪魔にがっかりした。
「ほら、早く! 弟子のあんたがなんとかしなさいよ!」
「わ、わかったよ。レイ、行くよ!」
黙ったまま、レイがうなずくのを確認し、シンジは走り出した。
丘から村への道を駆け下りながら、彼は考える。
おかしい。絶対に間違ってる。なぜ、僕がミサトさんの尻拭いをしなければならないんだ。
物語に出てくる魔法使いは、弟子のしでかした失敗の後始末をしてくれる側だ。弟子が
師匠を助ける話なんて、聞いたことがない。
いつか、絶対、こんな家から出て行ってやる。とシンジは心に思うが、口にはしなかった
し、ましてや行動に移せるわけもなかった。
村に入ったシンジが、ミサトを探して走り回る必要はなかった。
逃げ惑う人々と反対側に行けばいいのだ。
もっとも、その目指す先が、どんどん酒場の方へ、酒場の方へと近づくたびに、シンジの
ため息は深くなる。
レイとアスカからはぐれないように、注意しながら人をかき分け進んで行くと、騒乱の真
空地帯とでも呼べばいいのか、酒屋が面する広場に、こんもりと咲き乱れる花と、爬虫類
で作られた山がある。
「ミサトさーん!」と、名前を呼びながら山をかき分けると白く細い腕が見えた。
花も一輪一輪ならいい香りだが、これだけ集まると呼吸をするのも難しいほど強烈な匂
いになる。そこにトカゲやヘビの匂いが混ざれば最悪だ。
シンジは顔をいったん反らすと、何とかましな空気を探しあてる。
「レイ、アスカ! 先生を引っ張り出すから、少し離れて!」
彼なりに気を使って発した言葉だったのだが、赤毛の少女は鼻を鳴らした。
「はん。何、言ってんのよ。あんた一人で何とかできるわけないじゃない。あたしらもやる
に決まってんじゃん。ねえ、レイ?」
「危ないから、やめておいた方が……」とシンジは言うが、アスカは意にも留めない。
「それを言うなら、あんたもでしょうが!」
「あ、そういえばそうだね……」
そんな会話を続けていると、花と爬虫類の山から、くぐもった声が聞こえた。
「シ、シンちゃーん! 助けてー!」
それでシンジは話をするのをやめ、ましな空気が残るあたりに鼻を突っ込み、大きく息を
吸い込んだ。アスカとレイも同じようにする。
三人の手が、ミサトの腕をつかんだ。
「二人とも、いくよ」気配で二人がうなずいたの確認する。「せーの!」
三人は腕に力を込めて、ミサトを引っ張り出した。
それからのことを、シンジは思い出したくもない。
沢山の花々は、謝罪ついでに村中の人に配って回ったが、花屋には恨まれたようだ。
爬虫類は爬虫類で、欲しがる村の少年たちに分け、残りは台車で川まで放しにいった
が、その後、少年たちの母と、いたずらの被害にあった村の少女たちには恨まれたようだ。
これだけ働きに働いたというのに、誰からも感謝されないとなると、魔法の必要性という
ものは無いのではないか、とシンジは思う。
■■■ ■■■ ■■■
あれは大変だったよな、とシンジはほんの数日前の苦い思い出を振り返る。
目の前の村長は、あの時と同じく、苦虫を噛み潰したような顔のまま立っている。
年齢のわりに姿勢の良いコウゾウは、直立不動だ。
「まったく。トカゲや花が、やっと片付いたと思ったら、魔竜とはね」
「すいません」
今のシンジできるのは、謝ることだけだ。魔竜は自分のせいではないが、何かあれば謝
るのが彼の処世術になってしまっている。
頭を下げたシンジは、袖を引かれた。見れば、レイのほっそりとした指が彼の袖をつま
んでいるところだ。
「どうしたの?」
シンジの声で、その場いる全員の視線が、青い髪の少女に集中した。それが居心地が
悪いのか、レイはうつむいた。
「私、ミサト先生に言われてたことがある」
「先生の言われたこととはなんだね!?」
「困ったら、包帯を取りなさい」
『うわー。絶対にヤダ』
と、シンジは思った。
何度も繰り返す話になるかも知れないが、魔法使いの言うことほど、あてにならないもの
はない。
レイの包帯を取ったら、絶対とんでもないことが起こるんだろうな。それが何かはわから
ないけど。厄介なことだけは確実なんだ。だって、ミサトさんの言うことだよ?
レイはそんな兄の気持ちなど知らず、彼にそっと顔を近づけてくる。
包帯をはずせ、ということらしい。さらに言うと、自分ではずす気は無いらしい。
暗澹たる心持ちのシンジが発する空気を読み取れないのか、あえて無視したのか、
コウゾウがせかせる。
「さ、シンジくん。早く包帯を取るんだ」
長く巻かれた包帯を取る間、コウゾウたちが焦れているのが空気でわかった。
ほどいた包帯を丸めると、シンジは動きを止めた。
何が起きるにせよ、心の準備が必要だ。
『平常心、平常心、平常心』
心の中で三回唱え、大きく息を吐く。手の中の包帯を強く握りしめた。
見れば、レイの瞳の中、その虹彩には、紫色の開襟シャツを着た小人が一人、立って
いた。女の子の小人のようだった。
『何だコレ?』
シンジが驚いてまばたきすると、レイの瞳の中にいた小人の姿は消えている。
見間違いか、と安心したところで、彼の耳元で女の子特有の少し甲高い声がした。
「まいどー!」
自分の左肩を見れば、そこに小人が立っている。小人は二、三度鼻をこすってから、
カンカン帽を脱ぐ。
「お月さんも涼しげな、良い夜でヤンスな」
そう言って、慇懃にお辞儀されたが、シンジには言いたいことがある。
「あの、今は昼間なんです」
「あはは、いけませんや。まーた間違えちまったでヤンス!」
小人はたいして悪びれた様子もないまま言う。図々しくも、シンジの肩に座り込む。しか
も、落ちないように、シンジの襟を片手でつかんでいる。
「はっなっぢの出る夢、ひーみつーなーの! 良い子の皆さん!
あっしはエヴァンゲリオン。ま、小人です。あ、小人でヤンス」
「はあ、そうなんですか・・・・・・」
生真面目なシンジだからこそ、なんとか言えるが、コウゾウにシゲル、マコトは目を
みはったまま、凍りついたように動かない。
「そうでヤンスよ。旦那があっしの旦那になるわけでしょう?」
「はあ、旦那というのは?」
「やー。ですねー。旦那ってったら、あっしを使役するマスター。とどのつまりは、あっしの
旦那じゃねえですかい?」
そこで小人はシャッポを脱いで、深々とお辞儀を一同にしてみせる。
「末永く、あ、ずずいと、よろしゅうお願いいたしまするでヤンス」
小人をのぞいては、誰もが言うべき言葉を持たなかった。
「それで旦那のお名前は?」
じれたように小人が聞くタイミングで、ミサトの部屋から大声がする。
「シンちゃーん! 酒―!」
「ほうほう」小人は一人でうなずいている。「旦那はシンチャン・サケでヤンスか。
それで、どっちが苗字なんでヤンス?」
「僕は、碇シンジです」
「あれ? でも今、シンチャン・サケってどなたかおっしゃって」
「あれは、その」
「シンちゃ−ん! おーさーけー! 商売繁盛! 酒持って来い! あはは。
あー。面白い。こんなことなら、あたしも魔法使いなんかやらないで、宮廷道化師にでも
なるんだったわ。宮廷ハニーと呼んでくれー♪ ハニー! ハニー! 宮廷ハニー!
あはは」
ミサトが起きたようだった。こうなれば、彼女を呼んでくるべきだとシンジは考えた。
この場を収めるためには、ミサトが必要だ。この小人がいる理由など含めて。
「ちょ、ちょっと待っててくださいね!」
両手で押し戻す仕草をし、シンジは師匠の部屋へと駆け込んだ。その後ろを、黙ったま
まのレイと、何故かアスカまでもがついてくる。
「ミサトさん! ミサトさん!!」
「あによう。大きな声出して」
師匠は上はシャツ、下は黒い下着のみというあられもない身なりで起きていた。ベッドの
上にあぐらをかき、頭を掻いている。十四歳のシンジにすれば、『年上の女性』という幻想
が打ち砕かれそうな仕草である。
だが、シンジはミサトを『年上』どころか、『女性』という範疇に含めていないので、そんな
心配は無用だった。
シンジは自分の言いたいことを言う。
「レイの目に小人がいて、それが今、僕の肩に」
ミサトは弟子の肩に目をやる。小人に気づくと、笑顔を向けた。まるで旧知の友に会った
ときのように。
「あら、エヴァアじゃないの。今日だったんだ。出てくるの」
「ええ。おかげさまで、今日だったみたいでヤンスね」
「久しぶりねえ。十年ぶり、くらいだっけ?」とミサトが聞けば、
「その節は、大変お世話になったでヤンス」と小人が返す。
「いいのよー」
シンジたちをほったらかしにして、二人は会話を昔の話を始めている。このままでは
日が暮れても、終わらなさそうだ。たまらず、シンジは割って入る。
「ミサトさん。知ってるんですか? なんなんですか、コレ!?」
「ちょっと、シンちゃん?」ミサトは眉をひそめる。「エヴァアは小人とはいえ、女の子よ?
『コレ』って言い方はないんじゃないの?」
そういう話でもないのだが。
「だって、いきなりレイの目の中にいて、そのまま僕の肩にいるんですよ! おかしいよ!」
「あ、そっか。紹介がまだだったわね。エヴァア、こっちの男の子がイカリ・シンジくん。
ゲンドウさんとユイさんの息子さんよ。シンちゃん、その子は
エヴァンゲリオン。小人ね」
「それはさっき、本人から聞きました! だいたい何ですか、困ったときはレイの包帯を
取れって」
「あら、シンちゃん。お父さんから何も聞いてないの?」
「何をですか」
「シンちゃんとレイは、何であたしの家に来たの?」
「ミサトさんに弟子入りして、魔法使いになるためですよ」
「まさか」ミサトがのけぞって笑う。「ロバが旅に出たからって馬になって帰ってくるわけない
でしょ。箱に入れなきゃね」
シンジは何も聞かされていない。ただ『行け』と言われ、ミサトの家に来たのだ。この際、
ロバだ箱だは聞かないことにした。
聞くだけ無駄なことは経験上から知っている。
「あらー。知らないんだ。あなたのお父さん、碇ゲンドウさんって、召喚術の研究者でしょ」
「そうですね。『チューニッヒ学派』とかいう組織で召喚術の研究をしてるとか。僕は興味あ
りませんけど」
もとから父には興味がない。いつも自分の部屋にこもるか、出かけたきり何日も帰らな
いことばかりで、ろくに接点がなかった。ようは興味の持ちようがなかったのだ。
家の中が
研究の品などで鬱々とした雰囲気を醸しだしていたこともある。
「それじゃ、お母さんのユイさんの記憶ある?」
思い出そうとしたシンジだったが、ほとんど記憶にない。
「ユイさんも、お父さんと同じく召喚士だったのよ」
「そうだったんですか?」
母の記憶のないシンジとしては、母の話を聞くのは新鮮な驚きだった。彼の父である
ゲンドウは、そもそも無口で、母の話もそれ以外のことでも、話などしたことがなかった。
「それでね、シンちゃん。あなたのお父さんとお母さんはね、十年ほど前にエヴァアを
召喚をしたのよ」
「え? そうだったんですか?」
驚いて、シンジは自分の肩に座るエヴァを見た。足をぷらぷらさせていた小人は、ずり
落ちかけ、慌ててシンジの服をつかんだ。
「ちょっと、シンちゃんの旦那。いきなり動くと危ないでヤンス! おもにあっしが!」
「その時、あたしに協力の依頼が来たわけなのよ。エヴァアは小人とはいえ、相当な力を
持つ存在だからね。術式の方も大掛かりにものになったから、ま、当然、といえば当然な
話だけどね」
その辺りは信用できる話じゃないぞ、とシンジは思ったが、口にはしない。
「そこで、あなたのご両親は、エヴァアから何かを聞いたのよ。それで、その二年後、
エヴァアはレイの目に宿り、あなたのお母さんは消えた。そこでゲンドウさんは言ったの。
時が来たら、あなたとレイを、預かってくれって」
シンジにしてみればあまりに突然の話で、背後のレイがぴくりと震えたことに気づけな
かった。
言い終わると、ミサトは沈黙してしまう。必要なことはすべて話した、というように満足げ
である。
シンジも何を言えばいいのかわからなかった。
しばらく、二人とも黙ったままだった。
シンジの肩でエヴァが退屈そうに、あくびをもらした頃。
ようやく、ミサトが胸の前で腕組みしたまま、口を開いた。頬には得意げな微笑が浮かん
でいる。
「ということで〜。シンちゃんには、魔竜退治に行ってもらいます」
「なにが、ということですか!? 嫌ですよ!」
シンジの言葉はにべもない。
「何よう。あたしの弟子だってえのに、怖がっちゃったりするわけ? エヴァアもいるわけ
だし」
「怖いに決まってますよ! だって、僕が魔竜を追い払うだなんて!
何も魔法とか教わっ
てないんですよ!」
「あんたバカぁ!?」とアスカが頼んでもいないのにシンジをバカ扱いする。「わけわかんな
いもんが攻めて来てんのよ。戦うに決まってるじゃ〜ん!」
そうは言っても、わけのわからないものと戦うのが怖いのは仕方ない。
「あ、そうか」
ミサトは右手で作った拳で、左の掌を叩いた。何かが弾けるような音がして、左手に黄色
の花が咲く。どうも魔力がこぼれているようだ。
「死ぬのが怖いんでしょ〜。や〜、ね〜。もう。あたしの弟子でしょ〜。大丈夫、大丈夫。
ホントに大丈夫よん」
「だ、誰だって、死ぬのは怖いと思いますよ」
生まれて初めて、シンジはミサトに逆らった。もちろん、逆上してのことであって、普段の
彼なら想像すらできないことではある。
「男の子でしょう!? 死ぬことなんて我慢しなさい!」
酔っ払いの言うことに理屈を求めてはいけない。そんなことくらいシンジも知ってはいる
が。じっと彼の顔を見つめたミサトの言葉は、まだ続く。
「ねえ、シンちゃん。死は引越しに似ているわ。今いる場所とは違う場所に行くってあたり
がね。でもね、それまでいた場所と違う所に移り住むことを不安に思うのは仕方ないけれ
ど、怖がるのはちょっと違うと思わない?」
「引越したせいで死んだ人はいないわ」
レイが誰にともなく呟くと、ミサトは鼻を鳴らした。
「そりゃそうよ。引越しと死は違うものだもの。『よそはよそ、うちはうち』って言うじゃない」
なんだか頭が万力で締め付けられたように痛くなって、シンジはこめかみを揉む。
「何だか、僕が死ぬのを前提に話を進めているような気がするんですけど?」
「気のせい、気のせい。ホントに気のせいよん。第一、エヴァアがいれば、ちょちょいの
ちょいよ」
「それなら、先生が行けばいいんですよ」
「あのね。エヴァアは、あたしじゃ
使役できないのね。レイか、その血縁者でないと。レイ、
どうする? あなたのお兄さんは、行きたくないみたいよ。あなたが行ってもいいんだけど?」
うなずきかけるレイを見て、シンジは慌てた。シンジの妹は、昔から素直で、返事といえ
ば『はい』しか口にしたことがない。もっとも、否定のときは否定のときで赤い瞳が相手を
捉えるのだが。
「ぼ、僕が行きます! 行かせてください! 僕はレイの血縁者の、イカリ・シンジです!」
まさか、レイをそんな危険な目に合わせるわけにはいかない。彼女の血縁者で良いなら
ゲンドウを呼べばいい、ということは思いつかなかった。
「兄さんが行くなら、私も行くわ」
レイの呟きを、シンジは聞き逃さない。
「え!? なんで? 危ないよ。僕が行くから、レイはここにいてもいいんだ」
シンジの妹は、静かに首を振った。
「絆だから」
その言葉に、シンジは思う。
『うわー。絆だからで説明ついたら、世話無いよ。危ないんだよ? これで死ぬかもしれ
ないね? とか、そういうレベルなのに』
シンジの思考はぐるぐる回るが口に出すまではいかない。
「はーい。先生。シンジが行くなら、あたしも行きまーす!」
ちょっとした遠出にでも行くような気軽さで、アスカが手を挙げた。
シンジにしてみれば、レイを守るだけでも不安なのに、アスカまで来るとなれば責任重大
だ。それでも、あえて反対意見を述べる愚をシンジは犯さなかった。女性とはすべからく
魔法を使うのではないかという疑問を持つシンジだが、アスカに反対しようものなら、平手
打ちが飛んできかねない。さらに、叩かれれば叩かれたで、レイがレッドアイでアスカを睨
みつけるものだから、間に入るシンジはたまらない。
自分が我慢すればいい。そうしたシンジの性格は、本人の気質によるものではなく、環境
に形成されたものだと考えられる。
「あら、アスカも行ってくれるの? 助かるわ。じゃあ、そういうことで。シンジくんは、戦おう
とか勝とうなんて考えなくていいから。エヴァアに任せとけばいいからね」
気づけば、いつものごとく、難題を押し付けられていた。さらに今回は、妹とのん気な少
女のお守りもしなければならない。
シンジは、命の覚悟をせざるを得ない。妹が大事なのはもちろんだが、さっきから騒がし
い赤毛の少女だって、嫌いではないのだ。だからといって、好きか、と聞かれれば、二時間
は悩むに違いない。真面目な彼のこと、『好き』の定義から考えるだろうが。
「シンジくん。頼んだよ」村長のコウゾウが、シンジの肩を叩いた。
あいにく、シンジは
人に期待されることに慣れていない。
「わ、わかりました」と答えるにとどめる。
■■■ ■■■ ■■■
どのような言葉を発するべきか。シンジは現状を把握しきれなかった。
そこだけ夜だった。夜が動いているかのようだった。
魔竜はそれほど巨大であり、その巨大な四本の足が、尻尾が、頭の六本の角が作る
影は、昼の一部を覆っている。
どこの詩人が言ったのか。『昼の影は、夜の名残り』
なにせ魔竜の片目だけで一抱えはありそうなのだ。その緋色の瞳が三人を捉える。
「お子たち」
ふふん、と鼻で魔竜は笑った。
シンジとレイ、アスカの三人は、お互い抱き合って、飛ばされないようにするのが精一杯
だ。『どこさわってんのよ!』というアスカの怒号も、今のシンジには答える余裕がない。
そんな彼らに頓着することなく、魔竜は続ける。
「お子たちが、我の討手であるか?」
「そ、そのようですけど」シンジは顔が引きつるのを意志の力でこらえる。これと、どうやっ
て戦うと言うのだろうか。「今となっては自信がないです」
しかし、魔竜にとってシンジの不安は埒外のことであるようだ。
「なに。不安に思うことはない。勝敗の行方は常に我らが預かり知らぬこと。明日が来るこ
とを不安に思う者がないように、お子と我が敵味方であることは疑うは是非もない。我が
お子たちの敵であり、お子たちが我の敵。敵の姿が見えぬ常世とは、いざ決別の時という
ことよ」
首をふり、足を踏み鳴らして魔竜は見得を切る。
「まずは、お目見えといくとしようか。我、遥か彼方は南の地。約束の大地から来り。その
地の名、カナン。我が名、アザゼル。五百キュビトが我が領土なり」
「五百小人って、魔竜の旦那さん、そんなにあっしら小人を使役してるでヤンスか?
ヤバイっす、シンちゃんの旦那。あっしら勝ち目無いでヤンスよ」
「キュビト。手を上に伸ばしたときの、肘から指先までの長さ。五十センチ前後のこと。小
人ではないわ」
レイがそっぽを向いたまま、何気ない風でいう。
「そちらのお嬢は博学だ。二五メテオルが我が力の有効距離。さてさて、闘争とは怒りの
昇華。参万七千伍百六十四度の灼熱。つまりは皆殺し。そは、幼年期からの脱却か、は
たまた回帰であるか。しかし」
そこで魔竜は含んだ笑みをもらす。
「言葉遊びはここまで。お子よ。汝も名乗り上げよ。全身全霊かけて」
「ぼ、僕はイカリ・シンジです」
「なるほど。お子がイカリの血脈か」魔竜の嘆息は、地響きをともなった。「つまりはすべて
仕組まれたことというわけか。我とお子がここで対峙したことも」
「えーと。すいません」こんな時でもシンジは謝ってしまう。
「あんた、なに謝ってんのよ! 謝りゃいいと思ってんでしょ! 内罰的〜!」
アスカの甲高い声がシンジの背後から飛ぶ。
「アスカ、危ないから下がって。レイも」
そう言って、シンジは両腕をいっぱいに広げて、背後に立つ二人の少女をかばった。
自分の体ではかばいきれないだろうが、それでも二人を傷つけられたくはなかった。
「な、なによ。女は男に守られてろっての? 前時代的〜」
心の余裕がないシンジは振り返らなかったが、そうしていれば、面白いものが見られた
はずだ。
いつもシンジをこき下ろすアスカが頬を染め、顔などは花が咲いたようにほころんでいる。
「レイ。アスカのこと、睨んじゃダメだよ?」
赤毛の少女の心理は推測できなくとも、自分の妹のことは理解できているようだ。しかし、
レイがアスカを睨む原因が自分にあることは、理解していない。
興味深げに自分を見る、魔竜の赤い瞳から、必死の思いで目を離さず、シンジは口を
開いた。恐ろしさで口の中は乾ききっている。
「ま、魔竜さん。僕の話を聞いてもらえませんか?」
「なんであるか?」
「こ、このまま、帰ってもらうわけにはいかないでしょうか?」
「無理である」魔竜の返事はにべもない。「我は魔法使いカツラギ・ミサトに用がある。正確
には魔法使いであるミサトの家にある、『ある物』に。その為には、万難を排す覚悟である。
壁を薙ぎ払う心積もりはできている。そして、お子たちを肉塊に帰すのに逡巡することもない」
『うわー。これは僕、死んだな。確実に』
と、シンジは妙に現実味のない感覚とともに思った。それでも、レイとアスカが逃げるだ
けの時間は稼がなければならない。
その時だ。小人がシンジの耳に囁いたのは。
「さ、シンちゃんの旦那。ドラマチック演出の出番でヤンスよ!」
言葉とともにシンジの耳にかかる小人の息が、くすぐったかった。
「どういうこと?」
「あっしの話、聞いてなかったんでヤンスか?」エヴァがシンジの耳をひねった。
「ドラマチック演出の出番でヤンス!」
ちょっと、シンジになにしてんのよ! とアスカの怒声が飛ぶ。自分が普段シンジに対し
て、頭突き、平手打ち、飛び蹴りをくらわしていることは、彼女の思考の埒外にあるようだ。
「よござんすか?」エヴァはアスカを完全に無視している。「シンちゃんの旦那の物語が、
否が応でも盛り上る展開。それがドラマチック演出でヤンス!」
「そんなこと言われても……」
「なんであっしがここにいるかお忘れでヤンスか。あっしは、シンちゃんの旦那の大事な
ものを守るためにいるんでヤンス!」
「だったらさ……」既にシンジは、助けを求める心境にはない。「僕に、二人を守る力を、
なんとかならないかな?」
最後に気弱になるのは仕方ない。人間、そう簡単には変わらないし、変われないものだ。
「だったら、今からあっしが言うこと、叫びやがれでヤンス!」
そう言って、エヴァはシンジの耳に囁いた。
「え!? そんなこというの?」
「ったりめえでヤンス! 言わなきゃ始まらねえでヤンスよ! シンちゃんの旦那の物語が!」
『うそー。まだ始まってもなかったんだ。僕の物語って』
と、シンジは頭の片隅で思った。もうやけくそだった。今のシンジは、誰であれ、レイと
アスカを傷つけようとする輩は、前歯を全部折ってやるつもりだ。なんだったら、ついでに
犬歯もいってしまうかもしれない。
シンジは、エヴァに先ほど言われた通りに叫ぶ。
「鬼葬天鎧(きそうてんがい)! エヴァンゲリオン!」
「はいな! でヤンスよ!」
応えたエヴァの口が唐突に大きくなる。くわっと、その口の中まで見えそうなほど開かれる。
『くちぃ!?』というアスカの悲鳴が聞こえた気がするが、その時には既にシンジはエヴァ
の体内に取り込まれている。
内包されたシンジには確認するすべはないが、エヴァは今では、巨大な鬼と化している。
気づけば、膝を抱えた姿勢で、シンジは白みがかった半透明の液体の中をたゆたっていた。
「く、苦しい」
シンジの言葉をエヴァが聞いたらしい。
「大丈夫です。慣れれば、息もできるようになっていますから! おへそから!」
「これだったら、僕がいなくても良かったんじゃ……?」
「何を言ってるんですか。シンちゃんの旦那。あっしが力を発動するには、依代が必要
不可欠なんです」
「そうなんだ……」
「それにあっしが負けたら、シンちゃんの旦那が死ぬってペナルティが課せられるわけで」
シンジは思った。『うわー。最悪じゃないか、それ。あとさ、なに? 変身すると語尾が
変わったってことはさっきまでのはキャラ作り?』
「だから、負けないように、シンちゃんの旦那も手伝って欲しいわけで」
「どうすればいいの?」
生きる意味を問われても、今のシンジは困ってしまうが、それでも死にたくないのに代わ
りはない。
「シンちゃんの旦那がいるせいで、あっしにノイズが混ざっています。具体的には、気絶で
もしててください」
急激に液体の成分の、何かしらの濃度が高まり、鉄の匂いが強くなる。そして、シンジは
意識を失った。
『これだったら、やっぱり僕はいらなかったじゃないか』と、思いながら。
■■■ ■■■ ■■■
浜辺にて、シンジが息を吹き返すと、すべてが終わっていた。
赤い海は、何事もなかったかのように、白波をのたりのたりと寄せては返している。
仰向けに寝ていたシンジの顔を覗き込むのは、レイとアスカ、それにエヴァだ。
あたりを見回すが、魔竜はいなくなっている。
「さて、魔竜も追い払ったことですし。シンちゃんの旦那、帰るでヤンス」
「お。終わったの?」
おそるおそるとシンジは尋ねた。
「エヴァが全部やってくれたわ」と、レイが答える。
「あんたにも見せたかったわ〜」アスカが興奮した面持ちで言う。「エヴァが両腕を交差さ
せたらね。ピカッと光ってさ。その光で魔竜が倒れたのよ。でも、なんだったのかしらね〜」
そこまで言って、アスカは首をひねった。「その後、魔竜の体から、光る玉が南に飛ん
でったのよ」
それを聞いて、シンジは嫌な予感がしたが、あえてその理由を探るような真似はしない。
村を救うことができ、レイとアスカがケガをしなかったのだから、それでいいのだ。
「それじゃ、帰ろうか?」
三人とエヴァの全員が無傷で村に帰ることができる。シンジにしてみれば、それで十分
だったのだ。
■■■ ■■■ ■■■
さて、話はもう少しだけ続く。
村への帰り道のことだ。
頭の後ろで手を組んだアスカが空を見上げながら、言った。
「しっかし、エヴァって凄いわね〜。あんなおっきな魔竜、やっつけちゃうんだもん」
「えへへ、でヤンス」
照れたのか、エヴァが鼻の下をこすった。今では、シンジの肩が彼女の指定席になりつ
つある。
「あのくらいは朝飯前でヤンスよ」
「どうやったら、あんなことできるようになるの?」
興味津々でアスカが聞く。
「そうでヤンスね。魔法を極めると、できるようになると思うんでヤンス」
「そっか〜」何事か、アスカが考え始めている。顎に指をあてるその仕草が、シンジの目
には悪い前兆としかとらえられない。
世界のことなんて、彼の知ったことではないし、将来のことなんて考えられない。
それでも、赤毛の少女と彼の師匠の動向には十分注意しておかなければならない。
なぜなら、シンジにとって女性とは、すべからく魔法使いの可能性を秘めた存在だから。
魔法使いが何か考え出すと、その後始末は、シンジがすべてやらなければならないこと
になる。
悪い予感は、そうなりませんように、とシンジが願えば願うほど、そうなるようにできている。
今もそうだった。
アスカが宣言するように言ったのだ。
「あたしも、ミサトのとこに弟子入りする!」と。
それを聞いたシンジは思う。
『うわー。手間がまた一つ増えるよ。なんだコレ。なんだよ、コレ。なんで、いっつもこうなる
のかな。そうだ。いっそのこと、グレてみようかな。うん。これはグレても誰にも文句言われ
ない状況だよ』
だが、どうすればグレたことになるのか、彼にはさっぱりわからない。
仕方ないので、シンジは彼が唯一知る呪文を、三回唱えた。
平常心、平常心、平常心。
(終)
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